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自宅や職場でもできる座禅のようなものがあれば。

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様々な場面で、だらけたり甘えたり怠けたり、楽をしたり、逃げたりごまかしたり、近道をしたくなったり。不安ばかりが頭をよぎったり、いろいろな欲が出たりと。

手軽にできる雑念を捨て去る方法があれば是非教えてください。できることなら座禅とかやってみたいですが、自分でできる瞑想とか、呼吸法とか、こうすれば雑念を払うことができる、無になれるという方法があれば是非教えてください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

マインドを介入させずに、ものを観ること。

禅宗の一僧侶としてお答えいたします。
言葉の表現が 他の禅宗僧侶の方と異なるとしても、同じ心、同じポイント、同じ一点を言わんとしているのだということを前提にご覧下さい。

多くの方が坐禅とは、座っているときだけが坐禅だと誤解をされておられます。
座っている時だけが心静かであっても、正直それは癒しであって、救いではありません。
座っているという体の姿勢だけの坐禅から離れた日常生活の中でこそ、心が動じない境涯を得られてこそ、はじめて力になる坐禅、すなわち救いとなるのです。

外、一切善悪の境界において心念起こらざるを名づけて坐と為し、内、自性を見て不動なるを名づけて禅と為す。(『六祖壇経』)

簡単に申し上げますと、何か出来事に対する時に善悪、好き嫌いの思いに“染まらず”、
心が、出来事、相手、状況によって、動かされない心のあり方を、坐禅といいます。

反対に、動かされている状態とは、好き嫌いを起こしたり、善悪の判断をもったり、自分の都合でものを観ることです。
これは我見が働いている状態です。

例えば、誰か苦手な人がいるとします。
その人を見る時、「アイツはキライだ」「態度が悪い」とか、即座に私的見解を重ねてその人をみてしまう。
本当は、その人はあなたがいくら嫌おうが、その人そのまま、純粋無色です。
第三者にとっては、いい人に映っていることさえあります。

世界を、自分のフィルター越しに観ない心のあり方。
物事を、えこひいき、自分中心に“エゴびいき”せず、そんままフラットに観る視点。
自分 対 相手とか、自と他 とか、自分の内側と外側という、
心の境界線意識が薄れて、外れて、融け合っている状態。
山や海、川に行かれた時、誰もがそういう経験を一度や二度、経験があっても、その状態に気づかないことが多いものです。

「私の」「私が」「私にとって」という思いのフィルターを外して観る世界を、坐禅マインド、坐禅ビジョンともいいます。

物事を「わたくししない」ココロ、それが坐禅の“まなこ”、坐禅の(心の)“姿勢”です。
それが体現されている時、人はこの上なく、安楽安穏なのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

かならず目を開けてすること

COMPLEXさん、こんにちは。

質問の答えですが、坐禅や瞑想、サッカーなどのスポーツ、ドライブ。あなたの考える「無我夢中」になれるもの、なら(ほぼ)なんでもいいと思います。
坐禅や呼吸法は、どこでも・だれでも・いつでもできるのでオススメいたします。
坐禅については、こちら(http://www.rinnou.net/cont_02/suwaru.html )をご覧ください。

じつは、それよりも申し上げたいことがあります。それは、
・我を忘れた状態
・我が無い状態
は違うということ。

・かならず目を開けてすること
ということです。

どちらにも共通して言えることですが、それは「他人の迷惑にならないよう気をつける」ということです。
我を忘れた状態、というのは、ハイになってから、なりふり構っていない状態です。これではいけません。
目を開けているということは、ありのままの目の前の世界を認めるということです。現実に即しているということです。イッちゃった世界に、飛んではいけないということです。

独りよがりになってはいけない、ということ。
そして、無我と忘我の「ちがい」に、気をつけて無我夢中になれるものをさがしてみてください。いろいろ試してみるといいかもしれませんね。

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臨済宗妙心寺派 陽岳寺 住職 1985年生まれ。 東京都江東区深川出身・在住。 大学卒業後、鎌倉の円覚寺専門道場で修行。 2010年に陽岳寺に戻り副住職となった後「ようがくじ不二の会」を立ち上げ坐禅会、ゲーム部、お茶の会などを企画開催。 昔からお寺はお手繋ぎをしていました。もっとご縁を結んでいただきやすくしたいと思い、結婚相談所を開所いたしました(門前仲町 下町結婚相談所)。 hasunnohaでは、微力ながら考えたこと、思ったことを回答させていただきます。

質問者からのお礼

>向井真人さま
このたびはご返答ありがとうございます。座禅についてのサイトも拝見させていただきました。参考にさせていただきます。早速実践したいと思います。我を忘れた状態と我が無い状態は違うという事、“独りよがりになってはいけない”ということはなるほどと思いました。とてもよい教えだなと。こうしたことは結構一般的には知らない人も多いのではないかと思います。さらに多くの人に知ってもらいたいと思いました。

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