アドラー心理学と禅
法律事務所を経営しています。
顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。
結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。
そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、
「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」
「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」
「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」
「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」
「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」
というようなことが書かれてました。
自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。
アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか?
そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。
以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。
禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。
実は人に相談するのもとても苦手です。
ご回答頂ければとても嬉しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
事実には人間の見解による着手がない
まよう人はものを見る時に自分の考え越しにものをみる。
自分流の意味付けや価値観、評価、好き嫌いをそこに持ち込む。
迷わない人はものを見る時に自分がない。そこに自分が立たない。自分が立たないからそのものをそのまま自分の見解を立てずに見るから苦しみがない。
ただし、それはそういうこと。
そういうことがあったとしても世俗のルールは世俗のルール。
人間のルールは人間のルール。
お金を頂かずに書道を教えていた女性はかえって教え子をダメにしていることに気づきました。
「本人が対価・投資・自己投資をしないでタダでやってもちゃんとやろうとしない。」そう気づいてちゃんと月謝を取るようにしたら学ぶ生徒たちもちゃんと向上したそうです。
そもそもこのhasunohaも大半がタダでしょう。
仏教はギブ&テイクではないですが、回向しなさい、と。
人はもともとケチな人はケチなもんですから、そのケチな人にタダで与えても根がケチですからタダで差し上げても回向がない。人にそのすばらしさをめぐらし向けずに「あそこはタダだから人には教えずに自分だけの内緒にしておこう」という御ケチな人間製しか育たないものです。導き先がない。教導が無いからです。
おしえるということは人間がより立派な人間を作り出せるようにガイド・ご案内・教え導くことでしょう。あなたのお仕事だって、その人たちはそういうことを知らないからあなたがその分野をよく知っているから教えてあげているわけでしょう。ですが、それをやった結果、手ごたえがないというのであれば、やはりちゃんと対価をもとめればよいのです。パン屋さんだって、お金を取るでしょう。大工さんだってお金を取る。弁護士も司法書士も離婚相談所だってお金を取るでしょう。占い師だって法外な値段を取るでしょう。医者もお金をとる。
お金は悪いものじゃありません。お金を上手に用いることも功徳です。あなたの知っていることを用いて人の役に立つことも功徳ですが、そこでちゃんと人がより高い人間性に向かうことも功徳です。なんでもただただですと、残念ながらそれほど人は立派になりません。お釈迦さまはあえて御ケチな家庭に托鉢に行ったそうです。
元々人は自分の物などありません。
手放せるから活動できる。シェアできる。供養できる。社会を活かせる。
あなたもその自分のルールをケースに応じて手放せばよいのです。
アドラーの場合
もうダメかもしれない 様
アドラーの場合
「課題の分離」で、自分の課題を冷静に取り組むということになりますが、
「横の関係」も意識ておくとよいでしょう。
たとえ、上司と部下の関係でも、顧客と店主との関係でも、上下ではなく、横の関係系「他者と自分との違いを積極的に認め、同じではないけれど対等であることを認め合って築かれる対人関係」であれば、しっかりと対価も請求できるでしょう。
顧客の顔色を窺ったり、顧客の収入を気にしたりするのは対等ではありません。
あなたが、顧客を自分の色眼鏡で見て、上下を作ってしまっているからです。
ですので、対等な関係として、対価を請求していいのです。
顧客は、あなたに案件を持ち掛け、案件の解決を目指す。
あなたは、対価を受け取りその案件が解決向かうように手を差し伸べる。
というそれぞれの課題がありますので、冷静にそれを目指すということです。
そして
アドラーの言う、「共同体感覚」です。
人は他者とつながらなければ生きていけない。我々は他者と結びついているのです。アドラーは「自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である」と言っていますので、案件の解決向けては、他者との結びつきにおいて、幸せになることを目指し、他者に「貢献感」をもって対処する
ということがいえるでしょう。
「課題の分離」「横の関係」「共同体感覚」「貢献感」はアドラー心理学のキーワードですので、少し調べてみて、仕事に活用してください。きっと家庭の方にも良い影響が出るでしょう。
僧侶として学ぶべきことが多い、アドラー心理学です
貢献感や共同体感覚は仏教でいう、「利他」の精神ですし
課題の分離や横の関係は「中道」の考え方に近いと思います。
参考にしてください。
一礼
質問者からのお礼
自分と相手を切り分けるというより、自分をとおして相手を見ないようにする(=相手を通して自分を見ないようにする?)・・・見返りや返報という関係ではなく、「回向」という関係で考える・・・「回らし向ける」っていいですね!
なんとなく腑に落ちて楽になりました!
ご回答ありがとうございました。
重ねてご回答ありがとうございます。お坊さんもアドラーとか学んだりするんですね・・・
なんか、自分ではそのつもりはなかったのですが、色眼鏡をとおして人をみていたり、人との関係も「こうありたい」「こうあるべき」のようなものに拘りすぎていたのかなと思えてきました。ありがとうございました。