鈴木俊隆師の「禅マインドビギナーズ・マインド」を読みました。その中に、「自分自身を完全にもやし尽くすのです。... 禅とは、常に完全に燃やしつくして、灰しか残らないことをいいます。」
これは、「只管打坐」ということでしょうか。それとも、他にこの意味合いの語句がありますか。教えていただけたら大変嬉しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
その本の著者では無いので、真意はわかりませんが、想像するに自分というものが初めからなかったということに気づき、捨てるようさえもなくなるということでしょう。
握っている自分さえも捨て去る。手放しであるがまたで座る。
しかし、「捨て去る」といっても「手放し」と言っても、「あるがまま」といっても能動的に働きかける自分という存在が残る。だから違う言葉で燃やし尽くすと表現されたのでは無いかと。実際には燃やすものさえも無い握ることもできない様子が今、ここにドーンとあるという事実のみで生きているのでしょう。
只管打坐もただの言葉。
言葉では表現できない体験を言葉にするから色がついたりずれたりするのです。言葉や本を探ることではなく、実践の中で自らが気づかないとわからないことです。