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取り返しのつかない嘘

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17歳と15歳の娘がいる44歳既婚者です。もう12年お付き合いしている6歳年下の男性がいるのですが、その人と出会った時子供がいる事は正直に話せたのですが夫がいることは話せずシングルマザーだと言いお付き合いを始めました。彼と出会った時夫とは既に不仲で長い間別居していて生活実態も夫婦関係も全くなく表向きは正に母子家庭で、また夫は私に好きな人がいる事を知っている上で今の戸籍上だけの関係を継続させてくれていて16年後の定年退職を機に私が夫の籍を抜ける事に合意してくれています。今私が苦しくなっているのは別居しているとはいえ戸籍上既婚者である事をこんなにも長い間隠して彼と付き合い続けている事、彼は何も知らずにこの私を愛してくれている事、今までは罪悪感はあったものの彼を好きだという気持ちだけでやってきたのですがここにきて私は彼に対して取り返しのつかない事をしてきてしまったのだと気が狂いそうなほどの罪悪感に苛まれています。けど私の本当の身の上、正直に話せば私の心の葛藤は解消するかも知れませんが逆に彼には苦しみを与えてしまう事になる、と思えば、このまま真実は墓場まで持っていき、いずれは何かしらの理由をつけて別れを切り出すか彼の前から突然消えるか(そんな事をするのは身が裂けるほど辛いですが)、このまま真実を話さぬまま一緒にいて将来夫の籍を抜いた時に正直に話しその後どうするか彼に決めてもらうか、それか夫の籍を抜いて一緒に暮らせる時がきても(もう60、70歳とかになっていると思いますが)真実は決して話さず今まで通りこの苦しみは私だけが死ぬまで背負うか、とにかくここまできてしまったら後にも戻れないし先もどうなっていくのか不安ばかりでなりません。この先何が起こるか分からない。二人が納得いく理由でお別れしないといけない事があるかもしれません。それならそういう時が来るまで(運命に任せて)彼に嘘をつき続けていること苦しくても一緒にいたいとも思うのです。兎に角彼の事は絶対に傷つけたくない。例えこの先別れがあるとしても本当の事は絶対に知られないまま私の嘘は墓場まで持っていくべきだと。思わずついた嘘から12年。私が初めから既婚者だと話せていれば彼も私と恋愛関係になろうとは思わなかっただろうしそうすれば今頃彼も別の誰かと結婚し子供がいる人生だったかもしれません。私は取り返しのつかない事をしてしまったのです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ここで言って懺悔してもダメ

ここは坊さんがワンサカいるサイトですが、それを告白したからって人生もあなたの人間性も変わるわけでもなくチャラになるわけでもないです。
ああ、取り返しのつかないことをしてしまった…で、どうするのか。
人間というのは自分には都合よく生きようとする生き物ですから、過去の罪・現在の罪といっても、そこからあなたが今後、どっちにどう進んで誰を笑顔にするべきなのかが問われるのではないでしょうか。
好きだの、愛だのは幻想だと思った方がよろしいかと。
だって、あなたはそもそも今の旦那さんと愛を誓って、この人ならと思って結婚したはずです。ダンナと冷めたら若い男とくっついて、ダンナも彼氏も都合よく利用されているだけかと。
既婚者なのに彼に好かれようとして黙っていることを選択したわけです。そのくらい人間というのはいやらしいところがある。打算的で保身的なショーモナな生き物なのです。いえ、別にあなたのことを言ってるわけではなく、そういうショーモナなサガが人間にはあるということ。
そのショーモナなサガはこういうところで坊さん相手に正直に告白されてもチャラにはならない。そのショーモナな精神が今後も続きます。
あなたの進むべきは自身への向き合い。娘たちに恥じない生き方。これを機に自分のショーモナな心を断ち、生まれ変わって頂く必要がある。心の向上を持つこと。
人間が誰でも持っているショーモナな精神を恥じて断ち切って人生再スタートする気持ちを本当に持つことです。
それが仏教では菩提心と言います。
自分で求めるものですから、自分で求めてみてください。
多分今のあなたは都合や楽・欲望を選択する。
おおけの目にさらされた時のことを想像してみることです。
人は人が見てないから、明るみにならないから人間はそういうことをするんでしょう。
あなたのダンナ、子供、両親の前で胸を張れるか。
12年も一緒にいて結婚を考えているなら彼もお嬢さんとあっているはず。会わない、会わせない、会おうとしないのはそれが答え。
あなたがたが選択しているのは人間のご都合主義というもの。
無宗教というのは恐ろしい結果を生む。
宗教心やモラルをあなたが持てば答えは出る。
それが無いから優先順位を誤る。
菩提心、宗教心を持つこと。
それで答えは出ます。
人間らしさを取り戻すことを選択されるべきです。
あなたの宗教心・道徳心、モラルの始まりです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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