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厄介な隣人

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マイホームを建設中です。
土地を買い、そこに家を建てて大部分が出来上がりました。

先日マイホーム建設でお世話になっている大工さんから、建設中の我が家の隣の夫婦から、駐車場はどうなるのかと質問があったそうです。

駐車場は、一階建てのガレージを建てることになっているのですが、その事を伝えると、我が家が暗くなるので普通の駐車場にしろ!と言われたそうです。

私達は趣味でボートを持っており、それを収納するために建物が必要です。
もちろん法律上問題ない範囲でごく普通のガレージを建設予定です。
また子供もいるため、最低限屋根のある駐車場は必要です。

その夫婦は子供さんも独立した高齢の方のようですが、私達夫婦に話をさせろと大工さんに言っているそうです。
そこは大工さんが止めてくれていますが…

こんな厄介な隣人がいるとは知らずがっかりです。
もう契約しているし、必要なのでガレージは建てるしかありませんが、嫌がらせが心配です。
年代も違うし、そんなにご近所付き合いをする予定はありませんが、どのように挨拶しに行ったら良いのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今会っていないのに居るかのように思うことがあなたの迷い

話を単純に。
日照権はネイティブの人間にとっては大切な権利というだけ。
元々そこに家が建たなければその人は火の光をふんだんに浴びていられた。
それを失いたくないというのは当然の権利。当然の主張。
まずは「それだけ」でしょう。

そして、第二にあなた自身がビビってしまっている面があるという事。
実際に会っていない内から、怒っていない内から「ああいわれるのではないか」「今後こんなことが起こるのではないか」と自分劇場が展開されているだけだと思いましょう。
それは自分の脳内妄想です。

人との接触はボクシングと同じです。
リングで直接対峙していない時は、そこにあいてはいないのです。
シャドーボクシングで見えない相手「影」に潰されない生き方に目覚めましょう。

オレがこうしたい。
オラはこうしたい。
アタシはこうしたい。
こうなるはずだったのに。
こんなはずじゃなかったのに。
このように見ている世界は「アタマ(思考=イメージ=事実ならざるもの)」です。
それは人間の頭の中の小さなマイストーリー。
現実ならざるマイワールド。
家は「建つ」だけ。

そこに問題を起こすのは「わたし」「相手」「ひと」です。
人間の問題はちゃんと人間同士で話し合いによって解決ができるものです。
相手の「こうしたい」「こうしてもらいたい」とあなたの「私はこうしたい」をよく話し合っていけば、お互い年ガラ年中そこに立ち尽くしているわけではないのですから、妥協ポイントが見つかるでしょう。
土地は確かにあなたのものでしょう。
ですが、先住民族でもある「リン人」さんの気持ちも分かってあげられる度量を持ちつつ、あなたにはあなたの権利。恨まれてもいけませんので、譲歩できるところは譲歩して、駐車場をもしそっちの場所ではないように変えられるのであれば、上手に交渉してお金がかからないようにトラブルの対処として業者さんと交渉してみるのも大事かと。
「会っていない時はあっていない」から大丈夫です。
人間はいない相手を今もいるかの如くに考えてしまうから苦しいのですよ。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

工事の前には挨拶はされたのかな?
ガレージの壁を無くしたり、屋根を透明にしたりでしょうかね、妥協するなら。
相手が喧嘩腰でも喧嘩を買わないように落ち着いて話し合ってくださいね。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

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