自分の信じる『神』や『仏』が何者かわかりません
はじめまして。
うまくお話しできるか、わからないのですが…
ここ最近、自分の思想がどこにあるのかわからず、お話を聞いていただきたいと思い、投稿させていただきました。
まず、私は特に、何教徒である、ですとか、特定の宗教には属しておりません。
ただ、色々と自身の考えと当てはまるものを探すなかで、最も共感できるのが仏教でしたので、こちらにおります。
私は漠然と、神様が存在していると思っています。
神が人間を作ったと思っています。
しかし、それは聖書にあるような、直接的に人間を作り出すようなものというよりは、
人が一冊の本を作り上げるようなものだと思っています。
『神』が、この世界を作り上げ、そのなかで『キリスト教』『イスラム教』『仏教』といった…
語弊を恐れずに申し上げるならば、『地球というなかの物語の設定としての宗教』を作り上げているのではないか、と思ってしまうのです。
そうした、なんでもできてしまう神のような、宇宙の外にある大きな力が、私は怖くてたまりません。
あまりに苦しいとき、そうした『神』が、私に何かバチを与えているのではないか、とさえ感じます。
しかし一方で、仏教の『因果応報』という教えを知ったとき、どこか救われるような感覚がありました。
私が苦しんだり、喜んだりするのは、宇宙の外にある神のせいではなく、自分自身の行いの結果なのだ、と。
それから、少しずつ仏教について調べ始めていますが、やはり何か神様のようなものの存在は、否定できずにいます。
そもそも、誰か一人でも信じ、信仰し、救われている人がいるならば、キリスト教の神も、イスラム教の神も、はたまた新興宗教の神であっても、存在していると思うし、それを否定したくないのです。
自分の信じるもののために、誰かが信じるものを否定したくありませんし、ないものにしたくありません。
一方で、どこか神様のようなものに怯えている自分がいますし、こんな自分が仏教の教えに惹かれることは、それこそバチが当たるのではないかと思います。
うまくお話しできたかわかりませんが、心のもちようがわからず、難しく感じております。
なにかアドバイスなどありましたら、ぜひ教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
なにごとのおはしますかは知らねども(西行法師)
【なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる】
密法僧であり歌人であった西行法師は、このような歌を残されました。
仏教では仏とは何か、菩薩とは何か、神が何なのかという説明は、経典を紐解けばいくらでも記載はありますが、仏教でも神道でもアカデミックに学びたいわけではないのであれば「なにごとのおわしますかは知られねど」つまり「なんだかよくわからんけどさぁ」のままでいいのではないでしょうか。
神だか仏だかなんだかよくわからんけど、いつも偉大な何かに見守られている、育まれている、叱咤激励を受けている感じがして、ありがたくて涙がこぼれてきてしまう…
こんな感覚を大切にする事こそが重要なのだと思います。
千字で神仏概論
それはよく訓練された日本の精神です。
>特定の宗教には
「宗教的素養」と「教団に属す」の差ですね。
>『神』が、この世界を作り上げ
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三兄弟はそういう創造神が前提ですが、仏教や神道は違います。
仏教の神話の時代は「お釈迦さま以前にも仏が6代いたことまでは判明している。もっと昔のことは誰も知らない。世界の始まり?知らん。」とされています。
神道は「神が死んで、死体から野菜や穀物が生えてきた」という、今で言う炭素の循環そのもの。そういう自然の観察や、あるいは人間が文明を持ったことで、徐々に自然界と人間界は別物と認識していった過程を、神々という暗喩で伝えています。ハイヌウェレ型神話や家宅六神でググってみましょう。
日本人は全知全能の創造神に違和感があっておかしくないのです。
>そうした『神』が、私に何か
神道は自然の観察です。木を伐りすぎてハゲ山にしたら土砂崩れが起きる、スズメを絶滅させたら虫が増えて作物が壊滅する…という当たり前の因果関係が、「荒ぶる神」や「神さまが見ている」という暗喩で、日本の情操教育に取り込まれています。
>仏教の『因果応報』
これも同じ。自業自得は仏教語です。
だから「悪いことをせず、善いことをし、日々自分を調えましょう。」これが七仏通誡偈「しちぶつつうかいげ」という仏教のテーマです。
>やはり何か神様のようなものの存在は、否定できず
仏と一言でいっても、実は3種類です。まず、私たちの世界は生命力を活性化するように流れています。心臓の動かし方を知らなくても自然に動くよう生まれてきたでしょう?
そんな世界を①宇宙観や世界観で表現した大日如来タイプの仏。
逆に②救い主のイメージで表現した阿弥陀さまタイプの仏。
そしてそんな世界のありようを悟り、そんな世界の流れのカサブタにならない生き方を説いた人間である、お釈迦さまタイプの仏。
だから仏さまも、時に限りなく神っぽく見えますし、時に全然神っぽくないわけです。
>誰か一人でも信じ、信仰し、救われている人がいるならば
こういう存在のあり方を仏教では因縁仮和合(いんねんけわごう)と言います。この感覚がある人は相当よく訓練されていますよ。
その素養を不安(脅し)ではなく、安心(慈悲)に方向付けるため、これからお坊さんや神道に親しんでいただければと思います
私と物事と関わりの中の「人」が絶している所に神仏は存在する。
神様や仏さまはちゃんと出会えればそれ以外は神でも仏でもなく自分が思い描いていた勝手な妄想だったと気づけるようになります。
人間は見たこともないうちにどうして神はきっと、仏はきっとこういうものだと勝手に思描いてしまうのでしょうか。
私もそれを不思議に思いました。
仏像辞典や仏画辞典をみて見ると人によってとらえ方が違うのです。
大事なのは姿かたちではなく、神仏が何を作用として働かせてくれているか。
また、わたしたち自身が神や仏に対してどのように波長を合わせるべきか。といいましょうか。
坐禅をすると一番手っ取り早いのですが、自分をこの身の活動の上から一切やめちゃうことで神や仏にリンクできます。
神と仏って深いところでは別物ではないと思います。
神は人間が見出したもの。大自然の調和であったり、この世の法則を❝神❞的な働きとして見出したものに、説明するうえでキリスト教などは「人格」を与えたのです。人格を与えたのは人間です。正義を説明するのにもアニメで説明する場合アンパンマンとバイキンマンで説明した方がわかりやすいでしょうが、別にこの世にアンパンマンという存在が本当に要るわけではなく、我々人間がそのようになるべきであるという事を説いているわけです。
人が勝手にああではないかこうではないかと想像した神や仏は「人が立っている」から想像した本人のアタマの中の妄想が添付されてしまうのです。
今あなたが思い描いている神仏はいい意味で妄想だと思いましょう。
神や仏というのは本当に体感した人、体現した人だけが語れるものです。
実証のできない神様を思い描いてしまうことは、あくまでも創造であるという事を一歩退いて冷静に見つめ直しましょう。
本当の神様って人間が感知するものであり、本当の仏さまは人間が到れる心、帰り着くべき心です。外に理想の仏を描く人もおられますが本当は、人間が自身の中に見出すのが仏です。そのためにこそ修行があるわけなのですから。
ヘブライ語で神は「I AM THAT I AM」私はそのようにそれとしてある様子。
むしろ私の意識がこの身から無くなった時のそれそのものとの和合の様子です。
坐禅や念仏仏道修行によって無我を明らめればおのずから神仏の真意は会得できます。
アタマの知識や理ではなく実際の体感として神や仏の本当の所を明らかにされると本当の落ち着きが得られるでしょう。
自分の価値観を投影する
神様がいるとしても、神様が何を考えているか私達にはわかりませんよね。
人間には想像できない思考方法かもしれないし。
でも、たとえば日本の古来の考え方では、荒ぶる神、祟る神と考えられました。
これって、人間自身に「やられたらやり返す」「怒り、戦う」価値観があるから、「きっと神様もそうに違いない」と思われたのではないでしょうか?
天地を創造する神、従う民だけを助ける親分的な神、父に救いを求める神、救う神、みんな人間の価値観の投影かもしれません。
神様がアダムとイヴの二人のヒト造ったとしたら、それは、私達人間が赤ちゃんのとき初めて出会うヒトが両親だからかもしれません。
神様が言葉とともに物を創造したとしたら、それは私達が赤ちゃんのとき、言葉を聞きながら概念を創造していくからかもしれません。
(話が脱線しましたね)
もしも私達人間が、宇宙を仏様(悩み苦しみを消すためのヒントをくれる先生)、たとえば宇宙仏大日如来だと考えるなら、
それは、私達人間に、「みんなの悩み苦しみがなくなればいいな」という素晴らしい価値観が宿ったからでしょう。
荒ぶる神々しかいなかった時代から、救う神や悟りに導く仏様が現れる時代になったのは、人間の価値観がちょっとはマシになった(神仏に近づいた)からかも。
あなたが神様(の攻撃)を怖がるのは、あなた自身の中に攻撃性があるからかもしれません。