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親について

回答数回答 1
有り難し有り難し 18

父親が嫌いでした。
10年前に亡くなりました。いまだにいろんな思いが巡ります。
常に父親に言われたことに反発して生きていた気がします。
今は、父親から助けてくれなかった母親の考え方に反発してしまいます。
年々、自分自身もいろんなことがあり、乗り越えることに必死です。
親にたいして、感謝の気持ちと憎しみが交錯して苦しいです。
どうすれば、自分自身が両親を受け入れられるのでしょうか?
私は何なんでしょうか?
何で生きているのかたまにわからなくなります。
子どもが授かり、生きててよいのか?と思ったりします。大変だけど本当に助けられています。
でもあたり散らす自分がいて見苦しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分が親に高い理想を求めていたことを詫びれば良い

私も両親に高い人間性を求めていました。あ、立派ですよ。
ですが、私が求めていた人間性とは、わたしの身勝手な高い人間性。
私の押しつけがましい理想の要求。
そりゃ誰も聖人君子ではありませんから、そんな立派な親は中々いない。あ、立派ですよ。
私は親に高い理想を要求することをやめました。
すると、ラクになれました。
ああ、父は父で元々このままなのだ、と。
「脚色しようと、自分をおしつけていたのは自分だった。」
あなたも墓前でそれを念じてください。
おでこのあたりに引っかかっているお父さんを逝かせてあげることができますよ。
「父よ、あなたは偉かった。」
「父よ、あなたはあなたとして、あなた自身の何ものでもなかった。それを私の理想を押し付けて勝手に苦しんで父のせいにしてしまって、すみませんでした。」と。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
いつまでも父親の言葉にとらわれている自分自身と父親を認めきれなかった自分の思いに区切りをつけたいと思います。
今年は13回忌なので、気持ちも浄化できたらと思います。
ありがとうございました。

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