桜への想い
桜を見て、泣いてしまいます。
散ることはわかっているのに、なぜあんなに綺麗に咲いているのか。
人はどうして笑って桜を見ていられるのか。
散ってしまうのなら、いっそ咲かない方がいいのでは?と思ったりしてしまいます。
自分の恋愛を重ねているんです。
終りがくるのがわかっている相手との関係に、疲れてしまいました。
桜が散るのと同時に、その人の前から消えようかと思っています。
ここに書いて、どうなるわけでもないのですが…。
桜が、私の気持ちをどこかに運んでくれますか。
たとえばせつない気持ちは、どこに行ってしまうのですか。
同年代と比べて自分は何もできていないという劣等感がいつもある
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
拠り所
ご相談拝読しました。
お話しをお聞かせいただいて吉井和哉さんの曲「恋の花」が頭に浮かびました。よかったら聴いてみてください。
https://hasunoha.jp/questions/33533
さて、
>散ってしまうのなら、いっそ咲かない方がいいのでは?
というのは究極的には「どうせ死ぬなら生まれなかった方がよかった」という自己否定につながります。
私たちの歩みは「死」や「何かの終わり」によってそれまでの意味がすべて失われてしまうような歩みなのでしょうか。
そうではなかったと目が覚めるのは自分が先人やこれまでのご縁から様々なタネを受け取っていた事に気づいた時です。タネはやがて芽を出し花開きます。散ってしまった花も、その足元には次のタネが蒔かれているのではないでしょうか。
そのタネが自分の思い通りのものかそうでないかの判断で「意味なし」としてしまうならば、今の自分そのものが虚しいだけのものになってしまうでしょう。
自分の気持ちは自分で起こすものではありません。縁によって起こされるものです。でも気持ちの中で示していく態度で、また次に起こってくる気持ちも変わってくるでしょう。
「気持ち」を拠り所にする歩みは余りにも不安だと思います。不安定な気持ちに振り回されないためにも私たち仏教徒は「教え」に我が身を問うていくのです。
「教え」が拠り所です。あなたも真に頼れる「拠り所」を求めてみませんか?