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皆日々何を考えて思って過ごしているんでしょう

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私が会社で働くときに思ったのが、皆は日々何を考えて思って過ごしているんだろう?

妹やお父さん、お母さんは、私と違って何にも考えないなんていうのはあまりないですし、私は、何も考えないところがあるから、毎日過ごしているなかで考えた方がいいとは何度も言われてしまいます。
親に何も考えないと言われたら、やっと今のところわかりはじめて、妹にもまた、何も考えてないと言われたことを頭の中で覚えていたりします。すこし、うまくいかないくらいで考えなきゃ考えなきゃと思って泣いたこともありました。今のところはなんとか気持ちを切り替えてはいます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

他人がどうかよりもあなたが楽しく生きてください

人生の主人公はあなたはあなた。
あなたが楽しくないとあなたの身心はよろこびません。
今息をしている所。
存在している所。
自分で自分に手を触れてみてください。
それがあなたです。
そのあなたに物事が働きかけれられるとき、あなたの中では大事なことが見過ごされています。
あなたが傷つきもせず、汚されもせず、そっとそのこと、その出会いがあなたの上に行われます。
それはあなたの為だけに用意された、あなた専用のあなただけの角度でしか見られない、あなただけの耳にしか聞こえない超限定レアな出会いです。
そんな素晴らしいことが行われているのに、あなたはモッタイナイことに他人がどうしたこうしたとよそ見をしているので超限定レアな出来事がスルーされています。
仏教はあなた自身の心を開発する教えです。
時代は今「そと」に向いていますが、人生の達人はみな「うち」に目を向けました。
この自分自身のホトケセンサーとでも呼ぶべきが幸せ感受センサーがハイセンシティブになることで人生グッジョブになります。ぐっど成仏を。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
また、少しお話しすると思いますよろしくおねがいします。

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