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嘘をつかない人生とは

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有り難し有り難し 19

人に優しくすることが好きです。与えることで、一言「ありがとう」と言われると心から満足します。その後に頼られることがあると張り切って相手を満足させようとしてしまいます。

幼少期両親は共働きであまり家に居らず、海外に住んでいた父が、数ヶ月に一回日本の家に帰ってくるときは必ず自分を叱りましたので「叱りに帰ってくる人」という認識でした。ですがそれと同時にテストや成績のことをよく褒めてくれました。それが本当に心から嬉しかったので、父と母に「必要とされたい」「失望させたくない」「自慢の娘になりたい」という気持ちで今まで生きてきました。

他人に「相手にとって都合の良い自分」しか見せられないのです。私はそれで心が幸せになります。
会話の中で鋭いいじりを受け、それが心に深く刺さっても笑いに変えてしまいます。
嫌だと言えないわけではないのですが、へらへらと笑って都合のいい人になってしまいます。

自分や他人に大ウソを吐く機会が増えていきました。虚言癖です。他人を幸せに、楽しませるために、嘘を吐いたり、話を大きく盛って話したりしています。何が真実だったのかすら、いまでは覚えていません。

育ての親である祖父が他界しました。父が義父である祖父を嫌っておりましたので、私も祖父の生前、まるで祖父が嫌いであるかのように振舞っておりました。父に嫌われたくなかったので、大好きだった祖父を裏切ったのです。最後に一緒にご飯を食べたのは数年前の小学生の頃でした。「夕飯を一緒に食べよう」という祖父母の呼びかけを全て無視していたからです。私は幼少期祖父母のおかげで、両親の居なかった孤独を紛らわせることができました。罪悪感で心が千切れそうです。

自分をよく見せたい自己愛が気持ち悪くてたまりません。辛抱なりません。自分が嫌いです。それでも自分が大切で嘘をついてしまいます。息をするように嘘をついてしまいます。

虚言癖は治せますか?
自分を好きになるにはどうしたらいいですか?
人に優しくしても自分はボロボロな生き方を変えるにはどうしたらいいでしょうか?
嘘をつかない人生は幸福なのでしょうか?

妙な質問で申し訳ありません。
よろしければ、回答をいただけると幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ソンタック ノーモア

人間は自分が怒られたくないので嘘をつく生き物です。
大人もおんなじ。
テレビも偉い人にはぺっこぺこ!キモイですわね。
ですが、私はその反対の生き方をするとどんどん人が遠ざかっていきます。
でも、それって快適です。
ウソが無くなって、同じ宗派数で生きている人とだけ接してますから、おー、アンタぁ、まだそっちの住人だったかー。みたく、人の嘘もかつての自分の嘘ですから、わかるようになるし、責めないようになる。
あなたのコバンザメな迎合マインドは(コバンザメ言うな)親譲りです、人類の祖先譲り。みんなそういうセコイところが誰にでもあるの。皇室見たってそうでしょう。本当は何とかさまだって親の反対押し切ってまで結婚したい。でも大人たちの直感でんー、ちょっと違うなぁということがある。それに関して意見する人たちもそれぞれそれぞれの「そんたくん」をやっている。マスコットにしたらいいですよね、そんたくん。
ウソを言わないようになるには心の出家です。
坊さん業界にも形だけは出家してもシャバダバ世界よりももっとこすからいゴマすりスネ夫的人間がいました。だから出家ってカタチじゃなく、精神性なんス。
あなたが誰かにそんたくんや迎合や付和雷同、こびへつらい、ペコちゃん人形になってしまう時、自分の保身に気づくとよいです。
何か失いたくないものがあるんじゃないでしょうか。
本当はそれ、何も失わないのです。ジョジョに実験してみるといいです。
今まではこれをすると怒られるんじゃないか、失うんじゃないか、黙っていた方がいいんじゃないかと思ってきた。
もうあなたもかつての少女、お嬢ちゃまではありません。
あなたが一人前の女性、二人前、三人前、五人前、メガマックスの女性(特盛か)になるためには、出家精神あるのみです。アタマ丸める必要はありません。
アタシは自分を生きようと思うことです。
心の向上を求めて仏教でいう所のサトリやら菩提心やらを勉強してみてください。
ズケズケいえるようになりましょう。
そうすると、お、アタシ、やるじゃんと自然に自分を愛せるようになります。なんでかって。
自分に嘘が無くなるからです。
でも口は禍の元です。
ソフトに真実をちゃんと言うぐらいにしましょう。
オトンが自分ルールが強ければ本当のことを言うとめんどくさいことになるならそれはそれでいいのです。それぞれが独立存在。自由なライフを。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ソンタック ノーモア

人間は自分が怒られたくないので嘘をつく生き物です。
大人もおんなじ。
テレビも偉い人にはぺっこぺこ!キモイですわね。
ですが、私はその反対の生き方をするとどんどん人が遠ざかっていきます。
でも、それって快適です。
ウソが無くなって、同じ宗派数で生きている人とだけ接してますから、おー、アンタぁ、まだそっちの住人だったかー。みたく、人の嘘もかつての自分の嘘ですから、わかるようになるし、責めないようになる。
あなたのコバンザメな迎合マインドは(コバンザメ言うな)親譲りです、人類の祖先譲り。みんなそういうセコイところが誰にでもあるの。皇室見たってそうでしょう。本当は何とかさまだって親の反対押し切ってまで結婚したい。でも大人たちの直感でんー、ちょっと違うなぁということがある。それに関して意見する人たちもそれぞれそれぞれの「そんたくん」をやっている。マスコットにしたらいいですよね、そんたくん。
ウソを言わないようになるには心の出家です。
坊さん業界にも形だけは出家してもシャバダバ世界よりももっとこすからいゴマすりスネ夫的人間がいました。だから出家ってカタチじゃなく、精神性なんス。
あなたが誰かにそんたくんや迎合や付和雷同、こびへつらい、ペコちゃん人形になってしまう時、自分の保身に気づくとよいです。
何か失いたくないものがあるんじゃないでしょうか。
本当はそれ、何も失わないのです。ジョジョに実験してみるといいです。
今まではこれをすると怒られるんじゃないか、失うんじゃないか、黙っていた方がいいんじゃないかと思ってきた。
もうあなたもかつての少女、お嬢ちゃまではありません。
あなたが一人前の女性、二人前、三人前、五人前、メガマックスの女性(特盛か)になるためには、出家精神あるのみです。アタマ丸める必要はありません。
アタシは自分を生きようと思うことです。
心の向上を求めて仏教でいう所のサトリやら菩提心やらを勉強してみてください。
ズケズケいえるようになりましょう。
そうすると、お、アタシ、やるじゃんと自然に自分を愛せるようになります。なんでかって。
自分に嘘が無くなるからです。
でも口は禍の元です。
ソフトに真実をちゃんと言うぐらいにしましょう。
オトンが自分ルールが強ければ本当のことを言うとめんどくさいことになるならそれはそれでいいのです。それぞれが独立存在。自由なライフを。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ