贅沢な願いでしょうか?
少し前に母がお酒の飲みすぎで、出先で倒れてしまい、その際に後頭部をぶつけて救急に運ばれました。
病院から連絡をもらって急いで向かってら、本人は横になってるものの意識もあって安心はしました。先生からは「後頭部の骨折と頭を打った衝撃で脳が前頭部にぶつかって少し出血してるから一週間は入院しましょう」と。
私の中では最初はとにかく(無事であるならそれだけでいい)と思ってたのでとてもほっとしたんですが、入院3日位過ぎたあたりから母が「匂いが全然しない」と。先生が言うにはもしかしたら嗅覚障害かもしれないから退院したら耳鼻科で調べてもらってください、と言われました。
まだ耳鼻科へは行ってないので、結果は分からないんですが、もし完全に戻らない状態だったらと思うと...
母は別に仕事で鼻を使ったりする訳では無いですが、匂いが分からないせいで味がイマイチ分からないようで、家にもどってから普段の生活に戻った時の事を思うと、正直心配でたまらず、絵馬とか願掛けとかばかりしてしまいます。
最初の時は(命が無事であるならそれだけでいい)とだけ願っていたのに、無事と分かってからは今度は(障害だけは回復して欲しい)という願いに変わってました。
実は以前父も脳の病気で入院した時に(命が助かるなら)ということだけだったのに、助かって後遺症が残ってからはずっと(麻痺が良くなってくれれば)とかそういう願いまで拡大してる自分がいたことを今回の事で思い出したんです。
その時も周りの人は口を揃えて「助かっただけでもいいじゃない」って言ってくれてました。
勿論、周りの人の言葉はその通りなんですけど、家族だからという理由だけなのかは分からないんですけど、やっぱりどんどん次を求めてしまう自分がいます。
父の時も、母の時も場合によっては死んでしまうこともある病気や怪我なので神様や仏様に(命だけは助けてください)と願ったくせに、助かったら今度は(後遺症だけでも回復して下さい)と図々しくお願いのレベルを引き上げてしまっている事に後ろめたさのような不安が出てきてしまいました。
こんな風にお願いするのは良くない事なのでしょうか?
長文、駄文読みにくくて大変申し訳ありませんが、何かお言葉を頂けると有難いです。お願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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小欲知足ですね
拝読させて頂きました。大切な人の生命や病いやケガですからあなたがそのように願ってやまないのも当然のことかと思います。
あなたがおっしゃるように人の願いとはそのようにとめどないものです。そしてどこからが願いでありどこからが欲望であるかをよくよく見つめてみることも大切なことではないでしょうか。厳密にはその線引きは難しいかとは思いますけれども、そのように願ってやまない自分であることを知ることはとても重要なことかと思います。
巡り合わせの中で叶う願いもあれば叶わない願いもあります。自分の努力により叶うこともあれば、自分ではどうしようもないこともあります。
そのようなことを冷静に見つめてみて自分のできることをできる範囲にて、また人からのサポートを受けながら精進なさっていかれることが尊いことかと思います。
人を蹴落としたり傷つけたり奪い取るような悪意を持って行うのではなく、人と一緒に助け合いながら分かち合いながら生きていくことが尊いことと思います。
私達は生きていく為には様々な生命を頂かなけば生きてはいけません。そのこともどうぞ念頭においてご精進なさって下さいね。
「小欲知足」です。
質問者からのお礼
ありがとうございます。少欲知足、初めて知った言葉です。自分に出来ることを先ずはやっていこうと思います。