息子の病気と母の余命宣告回答受付中
皆さまお忙しいなか、読んでいただいてありがとうございます。
辛いのは自分だけではないとは分かっておりますが…どうしても心がぐちゃぐちゃになってしまいこちらに辿り着きました。
ちょうど一年ほど前に中学生の息子が『起立性調節障害』という病気に罹患していることが分かりました。数年で治る可能性が高いとは言われていますが、身体を起こすだけで頻脈が起こり、顔は真っ青、起きることができない、頭痛が起こる等で、学校が好きで行きたいのに身体がついていかず…休みがちになっています。母としてできることをしなければ!と必死でくらいついてきた一年。
ただ、朝早く残業も多い仕事のため、私の母にも手伝ってもらいながら闘病を続けていました。しかし、先週そんな母がもう治療法がないと言われるほどの肝不全になっていることが分かりました。いつどうなってもおかしくない、長くて一年ほどかと。
まだ62歳です。
今まで何も病気もせず通院もしていなかったので、本当に突然のことで、どう受け止めれば良いのか…。
またどうして自分の周りだけ、こんなに病気になってしまうのか。
ずっと少しぐらい自分がしんどくなったとしても人が喜ぶことをしよう、助けよう、そうすれば、きっと困った時に人が集まってくれるはずだ、そう思って生きてきたのに…こんなに病気が集まってくるような生き方をしてしまっていたのか、と、よく分からない考えになったり、自分でも何を考えているのか分からない日々です。
それでも、子どももいるし、ばぁばが病気ななって子どもも泣いています。親も辛いはずなので、自分だけはしっかりしなければ、笑っていなければとは思っています。
心を強くするにはどうすれば良いのか。
分かりにくい文章で申し訳ありませんが、何か良い方法があれば、ぜひご教示くださいませ。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
最大のピンチは、最大のチャンスになりうる
ハスノハに相談いただき、有り難うございます。まず、細かいご事情を存じ上げない中でのお応えであることをお許しください。このような大きな困難(ピンチ)は、実は見方を変えれば、家族の絆を深め、人生の大切なことに気づくための最大の「チャンス」とも受けとめることが出来ます。
お母様のご病気は大変お辛いことです。同時に、これまでお母様が大きな病気もなく元気に過ごしてこられたこと、そしてまいさんご自身や息子さんのために、どれほど多くの愛情を注ぎ、助けてくださったか、その有り難さを改めて深く感じ、心からの「ありがとう」を伝える、かけがえのない機会にもなり得ます。
まいさんがこのピンチにどう向き合い、そこから何を学ぼうとしているか、そのお姿(背中)を、息子さんたちはきっとしっかりと見ています。言葉で教える以上に、まいさんの生きる姿勢そのものが、息子さんたちにとって、将来困難に立ち向かうための大きな力となるはずです。これは、まいさんだからこそできる、尊い「いのちの教育」なのかもしれません。
息子さんの起立性調節障害についても、その診断をきっかけに息子さんの心身の状態や生活リズム(心理面、生活習慣、栄養面など)を改めて丁寧に見つめ直し、親子で一緒に改善できる点を探していくことができますね。主治医の先生ともよくご相談され、具体的な対策を一つ一つ試みていく中で、少しずつ良い方向へ向かう可能性は十分にあります。
思いがけない出来事が続くと、心が混乱し「もう何もできない」と絶望的な気持ちになりがちです。そのような時こそ、まず深呼吸です。そして、「この状況でも、私にできることは何だろうか?」と、書き出してみましょう。でも、まいさん一人で抱え込まないでください。「私がしっかりしなければ」と一人で頑張りすぎてしまうことはお勧めしません。どうか、今抱えている重荷をご主人様にも正直に打ち明け、一緒に背負ってもらってください。このハスノハ同様、弱音を吐ける相手がいることは、大きな支えとなりますね。
健康な時は、「当たり前」に見過ごしがちな一日一日の暮らし。これからは、お母様を含めたご家族皆さまにとって、どう過ごしていくのが最善なのかを一緒に模索を続けてくださいね。そのプロセス自体が、きっと家族の絆を深め、まいさんの心の支えにもなっていくはずです。
ハスノハは、いつでもまいさんを応援しています。
心は無常である
私の母は50過ぎでガンで亡くなりました。
私は就職したて、弟妹は中高生でした。
母は私が結婚したり孫が生まれたところを見ることなく亡くなりました。
また、私の子供は1歳のときにとある手術をしました。今は日常生活に支障はありませんが、臓器の一部を失っています。
ということで、「なぜ私だけ」と思ってしまう気持ちは私にも理解できます。
ただ、現在の私は仏教的な知識を多少持っているので、「なぜ私だけ」等の妄想雑念も、心を通り過ぎる一過性の現象に過ぎないと、悩んでいるうちから悩みが過ぎ去ることを期待する視点が持てるようになりました。
まだ解決していない問題も、いつかは悩み苦しみのテーブルから外れると、能天気に期待する、悲しみがあるときにも、その悲しみがいずれ通り過ぎる予感を持てるように私は成れました。
雲は月を隠せても月を壊せない。雲が過ぎ去れば静かな円月が顔を出す。
そのように、欲・怒り・怠け・プライド等の感情、過去や未来や自分や他人に関する妄想雑念の雲も、心の空を必ず通り過ぎてくれる、しかも実は、妄想雑念は瞬間瞬間に浮かんで消えているので、秒単位で見れば意外と頻繁に月光が闇夜に漏れているのです。
心は無常である、瞬間ごとに新しい心、だから瞬間ごとに新しい自分だと念じてみてくださいね。