猫の最期について
先日仕事中子猫が車に轢かれ
もがいてるのを見かけました。
私は理由をつけて見守るだけ、近くのガソリンスタンドの方が動かなくなった猫をショベルで引き上げ、ダンボールに入れてました。
私も猫を飼っていて全て保護猫です。
まだ生きてたかもしれない
咄嗟に行動できなかった
次は幸せな生を受けてほしい
いろんなことを考えながら今に至ります。
私達は猫に対してどんなことができるのでしょう
彼らはそのような死を迎えた時どうなるのでしょう
答えがないのはわかってます
ただただ苦しいです
一部の人間に対して執着して自分を卑下する 高望みし、自分に落胆する 自己顕示欲が強く、どこか焦燥感を抱えている
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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命の現実を仏法に出会うご縁として
ご相談拝読しました。
それはショッキングな場面を見てしまいましたね。
「なんとかしてあげたかった」
という思いは切なるものがあったことと思います。
しかし私たちが何かを「かわいそう」と思ったり「助けたい」と思ったりする気持ちは徹底せず、しかも実践もできない無力なものです。
ず~っとその気持ちを持つこともできないし、気持ちを持っていても助けてあげられません。
それどころか私たちは命をいただいて生きていますし、歩いたり車を運転したりする中で無数の虫の命を奪っています。
猫のことは気になっても虫の命は気にならないとか、気にしていたはずの命のことも、自分の都合に合わせてしか気にしていけないという悲しみを持っていてるのが私たち人間の生々しい姿です。
そんな悲しむべき事を悲しめない私たちの姿を悲しんでくださるのが仏様の大悲(だいひ)です。
大悲は仏様からの願いです。その願いは仏法に出会ってほしいという願いに極まります。
仏様に成るということがなければ私たちは誰かや何かを真の意味では救えません。それは仏様に成って超人的な力で命を思うままにコントロールするということではなく、
仏様に成る=真理に目覚める
ということがあってはじめて目の前の命の現実を受け止めていけるのだということです。
私たちが思い計らう以前に、この世の現実は法則の通りに動いています。そこに「こうあってほしい」「こうあるべき」と思い計らうことが実は法則に逆らうことになっているのかもしれません。
それはけして何かや誰かを大切に思う気持ちを否定するものではなく、むしろ本当にその気持ちを徹底せしめ、しかも成し遂げさせ得るものは何かという問題です。
質問者からのお礼
お礼するのが遅れてすみませんでした。
当時のことは今でもありありと思い出します。その後個人的に保護猫活動を始め今では団体に所属してます。
少しでも当時の自分に向き合える活動を続けたいと思います。
ありがとうございました。