信じていれば救われるのですか?
信じるものは救われると言いますが、本当に救われるのでしょうか。
私は、信じているよりも疑っていた方が、もし裏切られたときに、「やっぱりね」と思える分、傷付かなくて済むと思います。逆に信じていたら、裏切られたときのショックは大きいし、その分傷も深くなると思います。
でも、信じたいのに信じられない、いろんなことを疑ってしまう自分が嫌になることもあります。
やはり信じていればいつか救われるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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救いとは何か
ご相談拝読しました。
「救われる」ということが「自分の思い通りになること」だとしたら、信じていても疑っていても救われることはないでしょう。
一切は思う通りにはならないからです。
ですから思い通りになることを望むのでなく、自分の思いを超えたところに委ねられた時、人は救われるのではないでしょうか。
「信じる」とか「疑う」というのは自分の価値観・自分の都合に照らし合わせてそうなる可能性が高いか低いかという自己判断に過ぎません。まあ一種のバクチです。
そうではなく、たとえ私の思い通りになろうがなるまいが、都合に合おうが合うまいが、私はあなたに任せますとか、この教えに委ねますとか、自分自身をまるごと受け止めてもらえるものとの出会いこそが救いではないでしょうか。
そうは言っても思う通りになることをどこまでも望み続けるのが悲しいかな私たちの現実の姿でしょう。
その私の姿に目覚めさせ、「そのような私でした」と腹の底から頷かせ、頭を下げさせるものが真理を事実として私たちに伝え届ける仏の教えです。
仏の教えというのはどこか遠いところにある私たちと関係ないものではなく
>いろんなことを疑ってしまう自分が嫌になる
というあなたの不安や不満という形をとってあなたにも既にはたらきかけているのです。
「これでいいのか?」「本当のは何を願っているのか?」
と突き上げてくるものがあるのではないでしょうか。その感覚を一緒に仏教に確かめてみませんか?
最初は疑って当たり前ですよ。
盲目的になんでも信じてはならないとお釈迦様は言われましたからね。
疑いながら付き合う中で、この人は信じるに値するなとか、この事だけは信じていいなとか、そう自分が確信できることだけを信じたらいいのですよ。
「信じる者は救われる」というのは、信じることが生きる上での力になるからです。私も阿弥陀仏という目に見えない仏様を信じています。そのことを笑う人もいます。でも私は阿弥陀様を信じることが生きる力になるのです。
たなたはあなたの考え方を信じて何事も前向きに生きてくださいね。
信じるか信じないかはあなたしだい。