他人とは何でしょうか
子どもの頃から親、クラス、教師など他人と関わるのに疎外感を感じてきました。
その時の自分を表現したかっただけなのに、杭として飛び出れば、やっかみやいじめや、利用してやれ、無視してやれみたいな報復が待っており、世の中の大多数の他者とは分かり合えない、という思いが形成されました。
そういった「分かり合えない、わかってほしい」という思いと他者との関係は大人になってもたいして変わらず、そういった渇望に付け込まれて、やりがいの名の下にいいように働かされ、精神を病んで休職してしまいました。
自分が、他人と仲良くなるかどうかは別として森羅万象の相互関係性のなかで生かされていることは理解できます。他人の存在がなければお米を食べることすら不可能です。
それでもやっぱり、休職から社会に戻って人と関わるのが怖い。というか、自分の中に他人を位置づける場所がないのです。
他人と折り合えない、悲しい、深く傷つき、自分さえもそれを癒せない。ましてや外の世界に救いなんて無い。
また、わざわざ傷つきに戻るのだろうかと...
そこで、そもそも自分そして他人とは何かということを考えています。
仏教では、自分さえも固定的な本質を持たない、相互関係性でその瞬間ごとに成立しているただの現象であると説いていますよね。
では、同じような原理で発生している「他人」、例えばジャンケンしようとして相手が何を出すのかすら観測不能なまでに隔絶された「他人」というものについて、仏教はどう説明しているのでしょうか?
教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「人」というカテゴリーも幻
生き物は一匹一匹、一人一人、別々の個性を持っています。
一匹一匹が違う生き物。
ですが、世間では一応、「人」「猿」「犬」などと、生き物の種類を分類しています。
しかし、仏教では、私達が頭で考えた概念は、夢か幻のように実体がないと言われます。(空である。)
「人」という概念も空。だから「同じ人間同士わかりあえるはずだ」という考え方もまた、幻なのです。
見た目が似ている相手も、私とは別の生き物だから、わかりあえなくて当たり前なのです。
ただ、お釈迦様は、
「誰でも自分が一番愛しい。だからこそ、他人を傷つけてはいけない。」
と言われています。
他者も私と同じように、自分が可愛いのです。
あと、他者を慈しみ、他者の悩み苦しみをなくしたいと願い、他者の幸せや成功を喜ぶ方が、日常生活が楽しくなると思います。
質問者からのお礼
願誉浄史様
これを書いてから、自他一如、我他彼此というキーワードにもたどり着きました。自分という存在だけでなく、そもそも自他の区別自体が幻影なんですね。そもそもは区別がないし、恣意的に作った境界自体もぐねぐね変わりつづける。
自性がないんだな、というのを体感で理解して、そこから一周まわって戻って、社会的な他者に慈悲心で接することが出来るまでいったいどれだけのたうち回ればいいんだろう、と思いました。
でも今日考えていて気がつきました。今自分が抱えている恐怖自体が、過去の体験を引きずりつづけ、未来に同じことが起こるに違いない決めつけを行っているだという、いつもの罠でした。
蓋を開けないとわからないことや、起こってもいない未来についてグダグダいうのは無駄すぎる。
実体あるなしに関わらず、他者も出来事もコントロールできないものだし、認知は過去にばんばん歪められる。結果として感情が暴走する。
自分が自由意志で影響を及ぼせるのはひたすら今現在この瞬間の行いだけ。
そう肝に命じて立ち向かおうと思います。
ありがとうございます。