事故の関係者
親しい方が勤める職場で死亡事故がおきました。
その方は何年も前にその会社を立ち上げていて現在は引退されていますが非常に責任を感じておられます。もしあのときにこうしていれば、、、事故の原因に立ち返ると自分の責任になる、、、などと苦しんでおられます。
やりきれない気持ちは察することしかできないのですが、心をしっかり持っていただきたいので何か言葉をかけてあげたいのですがなにをいっても空虚な言葉しか出てきません。普段明るい方なので落ち込んでいる姿を見ているのが辛いです。なにか救いになれるためにはどうすればよいでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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簡単にその方の苦しみが軽減されることはありませんが
まず亡くなった方にお悔やみ申し上げます。
さて、あなたがご心配なさっている起業なさった方はとても責任感がお強いのでしょう。その方の性格は変わりませんから、お苦しみは簡単には軽減することはできません。それくらいじゃないと起業できないし、起業なさった会社が存続していることはありません。
私の父(故人)や、親類で企業に勤めていた人たちは決まって、リストラのときのことをずっと心の底に持っていて、誰かの首を切らなければならなかった時期のことに苦しんでいます。そんなずっと前のことだし、命まで奪ったわけでもないのに、と思うのですがそうじゃないようです。
そんなわけで、その方に寄り添おうとするのも簡単にできることじゃありません。落ち込ませて申し訳ありませんが。
そんな状況のなかで、ある程度お勧めできるのは、お経をあげてもらう、儀式を執り行う、などが効果があるようです。たとえば東日本大震災の後、各地で幽霊を見た、と相次いでほうこくされました。幽霊が出てこなくなったのは、お坊さんを呼んでお経をあげてもらう、というありきたりの方法だったらしいです。幽霊騒ぎとその方の問題はかならずしも同じ事例とはいえませんが、のこされた人の気持ちが転じられる点で共通します。
仏教でなくても、神道でも、キリスト教でもなんでも亡くなった方の信じておられた宗教のスタイルで追悼法要をお勤めになる、儀式を行うというのは案外、高い効果(表現の仕方に問題があるかもしれません)があるようです。
すぐできることとしてお墓参りに一緒に行ってあげるなどのことからはじめてみては如何でしょう。
ミスは誰にでもある
元々仏教に理解のある方なら、仏教的な言葉がけでスッと受け止めてくれるかなと思うアドバイスはありますが、
突然それを言われたときに、素直に受け止めてくれるかどうか。
怠けの煩悩は誰にでもあります。
したがって、誰にでもミスや失敗はあるものです。
今回、たまたまそれが死亡事故につながったのだとしても、故意に殺害したわけではありません。
自動販売機の前で小銭を手からこぼしてしまうのもミス(集中力を途切れさせた怠けの煩悩)。
死亡事故につながるミスも、小銭を1枚こぼしてしまうミスも、仏教的には罪の重さに大差ないのではないかと、私は思います。
むしろ、実際には殺してなくても、心の中で殺したいと怒りを燃やす方が、よほど罪業は深いかもしれません。
人間社会の法律上のペナルティがどうなのかはわかりませんが、仏教の世界では、「誰にでもありえるミスだよ、あまり気にやまないで」と言ってあげたいです。
また、怒りは煩悩です。後悔は過去への怒り。
被害者が加害者もしくは八つ当たりで怒るのも煩悩。
わざとじゃない事故よりも、怒りや後悔の方が罪が深い可能性さえあります。
結果がどうだったかよりも、心の中にどれだけ煩悩があったかが、仏教的には大切です。