心が
昔本当に好きだった人から10年ぶりに連絡がありました。
出会ってから数回デートしただけですが、ここまで好きだった人がいないくらい、好きでした。両思いでした。
でもタイミングが合わず、彼は急に遠くに引っ越す事になり、恋は実らずに終わりました。それから連絡もとらず、関わりも一切ありませんでした。
頭の片隅からも離れていた時に
10年ぶりに連絡がありました。
驚き、最初は警戒しながらも彼がなぜ連絡してきたかを知りたく、やりとりを続けていました。ずっとどうしてるか気になっていたけど、振った罪悪感から連絡出来なかったそうです。ただの下心から連絡をしたのかと疑っていましたが、彼は私に好意があるのを感じ、実際にも言われました。彼と話してると本当に楽しくて、
毎日本当に憂鬱で辛いけどその辛さが無くなっていました。
でも私は結婚しています。お腹に命も授かっています。だから会うことは絶対にできないとも彼に伝えていました。
それでも友達でもいいから連絡をとり続けたいと言われましたが
彼と話してると心惹かれて恋愛みたいなラインをしてしまう自分がいました。主人に対しての罪悪感で苦しかった。
このままじゃそのうち不倫に発展するだろうと思い、罪悪感で私は主人に打ち明けて謝罪し、もう連絡を取らないと約束しました。そして彼に事情を話し、別れを告げ、連絡先を消しました。
予想外の出来事が起き、
主人がいるのに、新しい命があるのに心惹かれてしまって‥
自分は情けないなと思いますが、
連絡取れないことが辛いです。
本当は会えなくても、もっと知りたかった。こう思ってしまうのは罪でしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
感情は湧き上がってくるもの。良いも悪いもない。
ご相談拝読しました。
それは切ないしお辛いですね。
でも選択された行動は間違いなかったのではないかと感じます。
何かを思ってしまうことは「罪」(一般的な意味で)ではありません。何人にも内心の自由が保障されています。法的に裁かれるのも行動に移した場合であるように。
しかし仏教的に見るならばもう少し深い視点となります。
まず、そもそも人が何を思うか、何を感じるかは選べません。感情は起こすものでなく起きるもの。様々な縁の中で影響を受け勝手に湧き上がってくるものです。なのでそれ自体に良いも悪いもありません。良い・悪いは感情それ自体ではなく、それを判断する人の後追いの価値基準によります。
ですが仏教的に見るならばこの勝手に湧き上がってくる感情・思考も私の行いです。「意業」(いごう)と言い、何を思うのかということです。そしてこの意業こそが最も重いものでもあります。
「罪」と表現するのはここでは避けたいですが、この「意業」…つまりは何を思い考えるかに人は最も影響を受けることになります。
でも何を思うかは自分では選べない…だからこそ、行動を整えることになります。
「身業」(しんごう)~何を為すか
「口業」(くごう)~何を話すか
です。
つまり今回あなたが取った行動がまさにこの「身業」「口業」をととのえたということでしょう。すぐさまに「意業」に反映はされてこなくとも、長い時間をかけてあなたがこれからどう感じていくのかに多大な影響を及ぼすことでしょう。
これを自業自得といいます。自分の業(行い・ありかた)が今後の自分を規定していくのですね。
もしもこのまま連絡をとって実際に会うなどの行動に移ってしまっていたら…お気づきの通り感情の炎は燃え盛り、ある種の快楽と同時にそれだけの苦悩が心に生じたことでしょう。
ここに書いてくださりありがとうございます。お一人で抱えていくには重い内容だったでしょうし、ご主人には話しにくいことでしょう。
こうして文字に整理したり、誰かと語ることで人は重い出来事も昇華していけるようになるのかもしれません。
またいつでもご相談ください。
罪ではありません
あなたの心も体も、思い通りにコントロールなんてできません。人の一生は他との関わり合いの中で存在しているものです。
今回のように揺さぶられるのだってやはり仕方のないことでした。
でも、人として真剣になったからこそ、そうして正直に向き合えたんだと思います。
全ては自然な心と体の動きです。
そしてその後の身の振り様も、ちゃんと考えて行動できていました。
しばらく気持ちが残るのは辛いですが、慌てずに鎮火するまでそっとしておいてくださいね。
質問者からのお礼
連絡をとらないことで冷静になり少しずつ気持ちが落ち着いてきました。
ただ、やっぱり心にはあります。
このまま気持ちが鎮火するのを待ちます。ありがとうございました。