hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

なぜ

回答数回答 1
有り難し有り難し 32

人を傷つけたくないように気をつけていたり、人に優しくするように心がけている人が、逆に意図的に傷つけられたり貶められたり損をする、報われない社会構造になっているのでしょうか?(もちろん自分が良い人間などと言っているつもりはさらさらありません。恥ずべきことや間違いを犯して人を傷つけたりしたこともたくさんあります。その上であえて書きます。)

そういう社会は馬鹿馬鹿しいと思います。それに気づいて絶望して自殺する人がたくさんいるのはしごく当然だと思います。

もちろん、これは今に始まった話ではないことは十分承知していますが、昔からこの構造が変わらないのであれば、なぜこのようなことがまかり通る社会において、なぜ良く生きようとか思う意味があるのでしょうか?

そして、仏教をはじめ色々な宗教が何千年も続いて良く生きることを説いているのに社会が全然良くならないのはなぜでしょうか?むしろ宗教が、信心者と非信心者を分けて人を分断しているのではないのかと思うことすらあります。

もう、私は世界を信頼できません。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

同感です。

要は世の中に嘘つき保身人間が多いということでしょう。
私は昔は典型的なベタないい子ちゃん僧侶をやっていましたが、バカバカしくなってシラフでフツーに思ったことを言ってます。世間が僧侶に僧侶っぽさを求めるからそれを理由に坊さんらしさを演じる人は多いですが、キモいですよね。結局、現実世界でウイグルやチベットの痛ましい悲惨な現実があっても、宗教者のくせに政治や力の強い人間や世間の目を優先してみて見ぬふりする人間ばかり。嘘つき野郎のテラノムスコの集まりだと確信しました。
いわゆる生やさしい法話を説いても別に世間はさほど必要としていません。現実はもっと苦しい。
ホントに苦しんでいて人の悪意で殺されていく人を助けもしない。SNSでポチもしてあげないくらいのお助け心のなさ。それも現実を物語っている。
結局、世の中の悪意はそんな生やさしいもんじゃ変わらんのですよ。
むしろ、悩んでいる人が悩まなくなっても悪党は悪党のままですから、永遠に悪党に都合の良い世の中がが続くだけなのですよね。
悪意の悪党は上層部で権利や権力をガめています。
その下にいる善意の人たちは数が多いのに改めようとする勇気がありません。
そこの意識を変えていく必要があると思います。
正すべきを正す。
悪を悪と言い放つ勇気がないのでしょう。一緒につかまされて同族にさせられている。
だから悪党がのさばって善意の人間がバッタバタ自殺していくような世の中になる。
こうなったら世もおしまい。
仏教界にも正法・像法・末法がありずっとループしています。
表に出たがる人は自身の学んだ仏法の内容やクオリティより、自己実現を優先させる。
だから、仏法を尊重する姿勢より自分の自己実現欲求が優先され世間に提供する仏法の内容が低下する。
口のうまい、口先だけの、迎合野郎が人気者となっていい加減な仏教を広め、それが標準になっていくということです。
世間の商法も同じです。
もともと塗らなくてもいい化粧品。
肌の保湿まで流してしまう洗顔液、乾くから欲する保湿。化粧水。
もともと依存しなくていい薬。
飲まないと効いた気がしないから飲み続ける。
時代が本物の品質を求めていないからこそおかしなものが広まるのでしょう。
だから人に頼ってもしょうがない。だから各自がやるしかないのです。私は自分のできることをやります。あなたもそうするべきなのではないでしょうか。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ