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我慢をしない境界線

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有り難し有り難し 3

久方ぶりにお世話になります。
先日、骨盤~脚にかけて痺れや痛みが発生し、2週間程養生しながら様子をみていましたが、耐え難い痛みとなり病院を受診しました。
途中経過は割愛しますが、腰部の椎間板ヘルニアの再発であることがわかり、おそらく再度手術をすることになると思います。

今回お伺いしたいのは肉体的な痛みをどこまで我慢してよいのか、どこから自分の体に無理をさせないのか?ということです。

私は生家で虐待されて育ちました。
どんなに心や体が辛くても「無理」だと言う権利はなく、言えば暴言を投げつけられ、人格を否定され、過呼吸すら、止める気がないから止まらないのだと責められ、私の意志を無視して割り当てられた家事等をするしかありませんでした。割り当てられたものではなくとも察してやっておけ、やっていなければ上記のように責められるのが、小学生~高校卒業で家を出るまでの日常の一部でした。

今は自分の生育環境が異常であったことを認識し、できないことは無理だと言っていいと言ってくれる伴侶や新しい家族に恵まれて、心療内科で治療を続けています。
ただ肉体的な痛み、異常に対してどこまで経過観察をし、どこから専門機関へかかればいいのか、今回脚に痛みが出ていますがどの程度の痛みなら通院にタクシーを使っていいのか(運転免許、自家用車共になし)皆目見当がつかないのです。

工夫して痛みを最小限に抑えながら、なんとかしようとする。それは私にとって少しでも心を守るために生まれた大事な行動です。
右手が使えないから左手でドアを開けるのと同じ、自然なことです。

ですが主人や友人はもっと自分を甘やかした方がいい、我慢できないと判断するハードルが高すぎると心配してくれています。
私が自分の体に厳しすぎることはわかります。ですが痛みという誰かと共有できない感覚に対して、どうすれば我慢の幅を狭め、無理という境界線を見つけられるようになるでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

他人から断られない範囲で

基本的には、他人から断られないかぎり、あなたのやりたいようにして下さい。
軽い症状でも、とりあえず医師に相談し、「この程度なら通院不要、もう来なくてよい」と医師から断られるまで通院すればよいのです。
タクシーは、お金さえ払えばお客を断らないでしょう。
あなたがタクシー代を節約したいかどうかはあなたの判断ですが、無理をして悪化するよりは、タクシーを使った方が良いでしょうね。
治療しても治る見込みがないなら我慢するしかありませんか、治療可能なら、できる対処をしてください。
欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩は苦しみを増やします。
お金を払うのが嫌だ、というケチは怒りの煩悩かもしれません。
病院に行くのが面倒くさい、家族に通院を相談するのが面倒くさいというのは、怠けの煩悩かもしれません。
この程度の痛みで受診するのは恥ずかしいとか思うなら、プライドの煩悩かもしれません。
煩悩をチェックしましょう。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

願誉浄史様、「他人に断られない範囲で」という明確なお答えをありがとうございます。
主人から口を酸っぱくして「今は誰も責める人間はいないのだから、まずは口に出してみ」と言ってもらっているので、過去の経験からくる恐れは拭い去れてはいませんが、引き続き努力していこうと思います。

私の煩悩は何なのでしょう。自分に価値があると信じられない気持ちは「疑心」なのでしょうか。
疑うというよりも、心の底から自分に価値はないと「信じている」方がしっくりとくるのです。
耐えられる痛みなら耐えればよい、工夫できるのだから工夫すればよい、堪えるのが当たり前である。なぜなら「私に」安寧を得る価値などないのだから。
歪んだ価値観を叩き込まれた自覚はありますが、感覚でも理屈でも、自分に価値があると理解したいのにできないのは「怠け」になるのでしょうか。
考えていきたいです。

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