周りとの死への価値観の違い
周りとの死への価値観が変だと言われます・・・
この間、友達とこれからの人生どう生きる?みたいな感じの話題になって友達が
「私は死にたくないから少しでも長生きする!」
みたいな事を言ってました。
でも、死というのは誰にでも訪れるものであり死ぬというのは今までの生きてきた中の嫉妬や苦痛劣等感などの苦しい思いから放たれることだと私は思ってます。
犯罪を犯した人や人を殺した人も社会や周りから許されることはなくても死は死をもって許されると思います。
病気やガンになっても、時間が経てばいずれはくるもの。私たち人間は時間を止める方法も不死身になる方法もないから受け入れるしかないのに、何故死にたくない、死へ抗おうとするのでしょうか?
やっぱりこの考え方はおかしいのでしょうか
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
本能と煩悩
ご相談拝読しました。
あなたの考え方はおかしくないですよ。そしてご友人の考えもまたおかしくはないのです。
あなたもご友人も今はそのように考える縁(えん:条件・環境などの意)の中にあるということです。
もしもあなたが情熱をかける仕事が道半ばだったり、結婚して幼子がいたり、そうした縁の中にいたら死にたくないと思うかもしれませんし、逆にご友人ももう治療方法のない病に伏したり、生きがいだと思っていたものが奪われたりする縁の中にいたら死んでもいいと思うかもしれません。
そうした縁の中でどのように今感じ、考えているのかという違いであって、その考えは縁に条件付けられているという意味では本質的には違わないのです。
私たちには本能と煩悩があります。
お腹が減ったら何か食べたいと思うのは本能です。生命維持装置ですね。だからあなたも死んでいもいいという考えであったとしても、もし目の前に車が突っ込んでいたらさっと身をかわそうとするでしょう。それが本能であり、考え以前のものだからです。
煩悩は色々ありますが、自分にとって都合が悪いものを遠ざけ、都合が良いものを近づけようとする在り方です。
お腹が減ったら何でもいいから食べれば満たされますが、毎日同じものやマズイものは嫌ですね。胃袋は文句を言わなくても私たちはそれを不快に感じます。煩悩の所為です。
考えの上でのものでないリアルな死は病による傷みなどの苦痛、老いによる情けなさ、死別による悲しみなど様々な都合の悪さをもたらします。
貴方の言う通り、死は避けられない自然なものですが、本能としても煩悩としても基本的には避けたがる傾向の強いものでしょう。
あなたの考えはとても立派で、私もそうあるようにしたいとは思いますが、そうした考えが間に合わなくなっていくのが死の厳然たる事実なのでしょう。
様々な縁の中で、死に対する向き合いかたも変化していくでしょう。是非仏教にも学んでみてください。