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姑舅旦那のモラハラによりひきこもり、うつ病

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私は、バツイチ子持ちで10年前に再婚しました
主人は、長男で田舎の実家のため、結婚を大反対されました
それは、尋常でないくらいの態度で威嚇されました
わたしは、それで姑の事がトラウマになり、さけて生活をしていました。そんな中、結婚8年目で初の両家の顔合わせの日にまた、姑が私の暴言を私の親にいいだしました。それ以来、引きこもりで鬱です
田舎の両親からは、野菜が送られてくるのですが、真夏でもクール宅急便を使用せず、普通に送られてくるので、野菜は、当然腐っています。注意しても何度も腐った状態で送られてきます
こんな時でも、お礼の連絡が必要でしょうか?
もう何が正しいか、わかりません
夫は、酒乱でDVで困っていると、舅に連絡すると、いつも連絡して
来ない癖に、こんな時だけ連絡してくるなと姑からは、嫌味しか聞こえてきません
私が悪いのでしょうか?
こんな実家に帰る必要ありますか?
そして、私の実家にもそれ以来旦那は、帰らなくなりました
こんな状態でいいのでしょうか?
助けてください
娘は、今年高3です


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

1つ1つ

まずはDVの相談を専門機関になさってください、文面からは分かりませんが舅は味方なのでしょうか、どちらにせよ解決されてないなら意味はないのですが
参考URL:http://nwsnet.or.jp/

腐った野菜が届くことを注意したり止めてほしいと連絡をしても届くのであれば、配達員に受け取り拒否をその場ですれば受け取りを拒否することが出来るようです
再三の注意にも関わらず送られてくるのであれば立派な迷惑です、遠慮なく拒否してください
それによって文句の電話などもあるかもしれませんが、それを嫌がっていては何もできません

読ませていただいた上で最もあなたや子供にとって出来うる対策は、今の家を出て子供と2人で貴方の実家に帰ることです
別れたくない、というのであれば別居という形だけでもまず取るべきではないかと思いますが、今の状況に置かれたままでは貴方の体調もよくなるものもよくならないでしょうし子供も心配ばかりでまともに生活出来ないのではないでしょうか

なんにせよ姑さんの嫌がらせは旦那さんが実家に帰れば無くなることでしょう、そもそもそれが原因なのでしょうから
もしそれでも続くようなら迷うことなく警察へ駈け込んでください、現状で駈け込んでいただいてもいいとは思いますが。

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有り難し
おきもち

望みというフィルターを捨てたうえで判断。

結婚した相手の家族からは気に入られなくて当然くらいに思っていましょう。
あなたのお悩みは沢山ありすぎですね。
ここでの回答は1000文字なので、一個一個、地道に解決した方がイイかと。
真夏の野菜は送ってくれたことはちゃんと感謝して方がイイですよ。
とりあえず、フェイスブックやっていたら、TOKYO禅にご参加ください。
遠隔地の方にはおススメしています。
自分の問題を一つ一つ箇条書きにしてみましょう。
夫の事、
実家の事、
娘の事、
舅のこと、
それらを気にるる自分の事。
一般に解決しようとしないでみてください。
悩みは一ページずつ、一個ずつ解決するとイイでしょう。
まず、それらを気にしているのはあなたの心の中が震源地だという事。
相手は変えられないことがあるという事。
それぞれが個別に自分の人生を生きているのだから、相手を変えようとしないという事。
自分の理想や期待、自分のルールを相手に要求しない事で、人生変わりましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しい中、ご回答ありがとうございます
人それぞれ考え方がありますね
DV酒乱について、福祉事務所、警察にも何度もきてもらい相談してきました
そんな中、心配させまいと舅にもだまってきていましたが、心身共に限界で連絡すると、姑が逆切れです
舅は、まだコミニケーションがとれますが、姑は、かわいそうな老人なので、あきらめます
また、他の方からのアドバイスいただきたいと思います
宜しくお願いします

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