他人の悩みすら羨ましく思う
此方のサイトで他人の悩みを見て、こんな事で悩むんだ羨ましいと思ってしまいます。
どちらかというと悩みの大半は、死に直結しなくて、人生うまくいってて、そこまで世の中の苦しみを感じないような3ヶ月経てば忘れるような悩みで悩んでる人が沢山いて羨ましいなあと思います。
この世界の幸福量って確実に違います。
受け取り方の問題という人がいるけれど、誰も皮膚を剥がされてレモン塗られて「楽しい!幸福!ポジティブ」とかいう人はいないと思います。この世界の苦しみは生まれつき大きく決まってて(遺伝子や肉体や環境)人の幸福の差が大きい。
そんな中で、私は他の羨ましい人達を横目に苦しみを継続しないといけません。
私はいつ報われるだろうと思いながら、ずーっとずーっと報われることはなく、考え方も更に哲学者ぽくなり虚無感は強くなりました。
幸福感の差がわかってる中で、私はその恵まれた悩みの人達よりも苦しい悩みを解決しながら解決策がなく、死ぬときには幸福感が殆どないまま死んでいくんだなって思いました。それで恵まれた悩みの人はそれが成長の糧となったり、数ヶ月経てばケロッと忘れて世の中は良い時と悪い時がある!とか世の中苦しんだら這い上がるだけ!とかクソみたいなありきたりのポジティブ用語を並べ立て説教しにくるでしょう。
おそらく大半の人はこういう感じでケロッと忘れて世の中はポジティブ教になったり、非定型鬱病に溢れてるのでしょう。
自殺率は、死にたいとかいってリスカしてる女性よりも精神科の通院率がとても少ない男性が圧倒的に自殺率高いし。この質問もそんな感じで悩んで助けを求めてるのは恵まれた人達で、助けを求めても誰も相手にされないのが私みたいな人。
私のこの悩みは仏教的にはどうなのでしょうか?
浅ましい悩みなのでしょうか?
他人が羨ましいというより、そんな運命(遺伝子、運の悪さ、環境、病気、人)を生きなくてはいけない自分の苦しみを恨みます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分は概念
自分という存在自体が概念にすぎないのです。
「自分は不幸」という「自分」っていうものが、幻みたいなものです。
今、この瞬間に、どれほどの苦痛があるのか。
仏教的には、今・この瞬間の現実ではない、妄想雑念で悩みを増幅させていると考えます。
今の1秒に、昨日の「自分」の悩みは、たいした影響がないのです。
トイレットペーパーを千切る瞬間に、トイレットペーパー以外のことを考える必要はない。
瞬間瞬間ごとに新しい人生。
「自分」は概念にすぎない。
ただ、物質と心が、原因と結果の法則で瞬間ごとに生じて滅するだけ。
瞬間ごとに新しい物質と心に、「⚪⚪君」とか仮に名前をつけてはいるものの、それは一応名前をつけているだけの、幻みたいな「私」なのです。
葬式で泣いた帰り道にギャグ漫画で笑っても、不謹慎ではないのです。
瞬間ごとに新しいのです。