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子供が登校を嫌がります

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有り難し有り難し 14

いつも何か落ち込んだり、迷ったりすると、こちらを拝見させて頂いています。
とても参考になり大変助かっています。
夏休み明けの9月から息子(小学生1年生)が集団登校で学校に行かなくなってしまいました。
それまでは、送っていく日(雨の日や、頭が痛い等)もありましたが、一応行けていました。
学校まで40分と距離があり疲れるから歩きたくないという事でした。でも、集団登校で歩いて行くというのは決まっているルールだから行かなきゃダメと言い聞かせて私も学校まで着いていくようにしました。まだ、朝は行きなくない送ってとグズグズしますが、週2.3日はなんとか一緒に歩いている感じです。
ただ私が一緒でないと行けないです。
最近、朝から歩いて付いて行かなきゃいけない、いつまで続くのかわからない。歩かないと他の子に息子が悪く思われるんじゃないか。と、プレッシャーがすごくて。私がまいってきてしまい、、、
すごく辛いです。
情けないとは思うのですが、私ががんばらないといけないのですが、朝が来ると気分が重たく私も歩くのが嫌になってきました。
どうしたら、がんばれるでしょうか?
一緒に行くしかないというのは、わかっているのですが、ゴールが見えなくて辛いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

条件付け無しの愛

大人が子供に何かをさせようとしても子供は嫌がるものですが、子供は子供なりに自分で選択して行動しているものです。
学校に行かせたい、みなと同じようにさせたい、私にとって障りにならないようになってほしい、、、そういうのは実は親御さんの要求だったりするものです。
まずはそれを捨てて、お子さんがどうしてそういうこと道をしたいのか、お子さんになりきって同じ波長で眺めてみましょう。
たとえばご飯だって今日は何を食べたいかですらご主人ともお子さんとも違うはずです。
大人の条件を全部外してみると、そこで初めて見えてくる世界があるのです。
私の為、大人の都合、一般常識として…、というのを全部外して何に条件付けも無しにお子さんに接してみると、お子さんとあなたとは同格になれます。

そうした上で、そこからお子さんの意思を尊重して受け止めてあげてから話を勧めた方が、大人の押し付けが無く本当にスムーズに事が運ぶようになります、
時には送ってあげたり、学校のルールも破るくらいの「私だけは何があってもあなたの味方だよ」的な親の愛を示してあげてみることも大事である思います。
学校だって嫌だ、親であるあなたにも否定されて嫌だ、では行き場が無くなってしまうからです。

人間は誰でも自分を生きています。
本当は比較はできないのです。
今、お子さんが不足しているエネルギーがある。
それを補ってあげるだけでイイのではないでしょうか。
みんながみんなそれぞれの事情がある。
みんながみんなその子らしさを持っている、と見てあげましょう。
あなたもあなたであなたのお子さんがある程度ちゃんとなってくれたらあなたの不足しているエネルギーが満たされる。
学校の為でもなく、世間の目を気にするでもなく、本当にドボンとわが子を助けるために水の中に飛び込むように助けてあげるだけでいいのです。
そうするとあなたの中にも条件付けが外れて「ただそのことの為だけに」やれるようになり、他人の子供と比較せずちゃんと補ってあげられるようになります。
後は、そこからはソフトに条件付けをしてみてください。
初めは一週間だけ、それでもだめなら十日間、二週間…。
お母さんがついてきてくれるという安心感が満たされれば、そのうちサポートは要らなくなります。
今までのやり方を一度思い切ってリセットして、今日は今日で「新たに」予測も憶測も無しで臨みましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様
ありがとうございました。「大人の都合」本当にその通りだと思います。
そう考えたら気持ちが楽になりました。
次の日は送りの時もいつものように気分が沈む事もなかったです。
ゆっくりと子供に付き合って行こうと思います。

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