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息子の気持ちがわからない

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有り難し有り難し 11

高三の息子、高三の間休みがちでしたが
なんとか卒業できました。
進学を希望していて、現在受験の真っ最中ですが、全く勉強が手につかず、
頭痛や腹痛だと言って一日中寝ています。
食事の時に声をかけたら
食べにきますが、すぐ自室に戻り、
起きていても布団の中で過ごしています。
今のところ合格している所があるのに、
そこは行く気がないから入学金入れないで、今から受けるところで合格したら進学すると言います。
話し合いをしてもほとんど黙っていて本心を話しません。
一切放っておくべきなのか?
もう少し積極的に関わるべきか?
進学先が決まらなかった場合、引きこもりになることが心配です。
学校が休みがちだった理由もわからない、とにかく朝起きられないと言っています。

2024年2月22日 14:08

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お子さんとはお友達になるぐらいで

まずはぶっちゃける。
人生の先輩として最悪こうなったとしても母ちゃん点いてるから大丈夫だよ、というぐらいどんぶり母ちゃん勘定でドーンと構える。
お子さんがこれを失ったら跡がないという心理にあるならその不安を取り除くためにも、それを失敗したからって別にOKなのだと伝える。
私の大学時代のお友達はイチロー選手(一浪)が多かったです。みんな元気に人生楽しんでます。大丈夫なのです。
お母さんがおかあさん・母親という立場をつよく意識し過ぎると、立場というものが生まれます。
お母さんは確かにそのお子さんからすれば母親ですが、たとえばあなたもあなたのご両親がやたらと母親、父親という立場を強くこだわって、何を話すにしてもお話にならなかったりしたらどうでしょうか。
あるいは、心配だ心配だという理由で何をするにも監視されているかのような、あるいは、心配という名目で否定されているような感覚だったらどうでしょうか。
お子さんに限らず人間は誰でも否定されたくない、悪く言われたくない心理があるものですから、心配であっても何があっても大丈夫だぐらいの気持ちで関わることをお勧めします。
まずは、お子さんが今後どうなっていくか?
高校いったらOKか。
お兄ちゃんのように大学行ったらOKか。
大学卒業すればOKか。
就職すればOKか。
子供を持てばOKか。
子供が幼稚園、小学校、中学校、義務教育を終えればOKか。
子供が高校はいればOKか。
子供が高校をなんとか休みがちだったけど卒業できた。それでOKか。
次は何があるだろうか。
さて、ここで問題です。
いつの間にかお母さんの問題になっていませんでしたか?
今お母さんは、お子さんの問題を自分のことのように問題にされていたと思います。
問題を二つに分けましょう。
おかあさんはお子さんではありませんから、お子さんにとって必要なことはできる限りしてあげましょう。
ですが、過干渉や過剰な心配はお子さんの人格を否定するような態度にもなりますので、お子さんの人生はお子さんの人生として、お子さんの尊厳を認めてあげたうえで、時には母親としての立場を持ち過ぎないように、彼の人生がスムーズにいくようにできることがあればしてあげる。
見守るべき時期は見守る。
人生における大事な教育・スキル・智慧は何があっても大丈夫になることです。
つらいことがあればご一緒にお電話どうぞ。

2024年2月22日 17:27
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速ありがとうございます。
正直、心配しすぎるタイプなので図星です。どんと構えていた時期もあるのですが、
逆に息子から、
当事者じゃないから気楽だな、僕の気持ちなんかわかるわけない、と言われてしまいまして。人生毎日お勉強ですね、
ありがとうございます♪

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