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学校のテストでの失態について

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僕は、中学校の時、ある定期テストのある問題に長考していました。 ですが、ふと頭を少し上げると、前の人のその問題の解答が見えてしまいました。

僕は、その見えた解答が正解だと思いましたが、それでも自分なりによく考えて解答しました。ですが、前の席の人と同じような解答になりました。

前の席の人の解答を見たことによって、頭に浮かんだ解答を記入したことになるので、不正行為をしたのではないかと罪悪感でいっぱいでした。

進学校に入学して、高校生になった今、このことを思いだして、また強い罪悪感にかられています。

せっかく入学したのに、成績を偽っているのではないかとさえ考えてしまいます。

なんとなく不安です。私は、考えすぎでしょうか。 あまり心配する必要はないのでしょうか。 また、罪悪感の対処について、アドバイスが欲しいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

誰もが最高の生き方を求めれば同じ回答。同じ生き方になる。

シャカという人にあったことのある人はいない。
それでも人生どん底に落ち込んで最高の生き方を求めて、暗中模索して紆余曲折してとことん追求するとどういうわけかシャカという人間と同じような生き方になる。
同じ答えであって構わない。
同じ答えをしても「活動体」そのものが違うからである。
彼が人生において誰かを助けた。
あなたは別の人助ければよい。
私と同じ回答をする僧侶がいたとする。
その僧侶は誰か別の人に響くものがある。
あなたはあなたしか出せないサウンドがある。
あなたにはあなたしか出せない活動がある。
あなたにはあなたにしか出せない人間性がある。光、輝きがある。
闇をアウトプットせず、ヒカリや輝きを生み出してアウトプットするべきです。
さっきまではダークな答えに向かっていた。
今から光ある方向へ向かって生きる。
それで答えも結論も輝かしいものになる。
GOOD成仏。✨

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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