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仏教にはなぜ多数の仏様がいるのですか?

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仏教には大日如来、不動明王、観世音菩薩などいろいろな仏様がいますが、仏教の始まりは仏陀が悟りを開いて、それを他の人々に教えたのが始まりですよね。

それならなぜ一神教ではなく、多神教になったのでしょう。仏陀の教えを信仰するなら仏陀一人を信仰するのが自然な流れではないのかな…と考えました。

いろいろな地域に広まるなかでその土地の神様と混ざっていつのまにか増えていったのでしょうか?


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

進路指導、生活指導、学習指導、

ひとくちに仏教と言っても、大別して【上座部】と【大乗】という2つの流れがあります。今でも東南アジアなどで信仰されている上座部仏教は、いわゆる”昔ながらの”仏教で、礼拝の対象である本尊もお釈迦様ただお一人のみです。それに対して大乗仏教にはあなたもご存知のように、たくさんのキャラクターが登場します。

たとえば、上座部は義務教育から高等教育までだとすると、大乗は大学の教育学部です。つまり、高校までは問題を解き方を学び、教育学部では問題の解き方の”教え方”を学ぶわけです。”教え方”の中身としては、当然わかりやすい問題の解き方という学習系もあれば、挫折しかかっている生徒を励ましたり慰めたり、非行に走る生徒を正しい道に導くという生徒指導系あるでしょう。しかしながら、生徒というのは千差万別で、良い子、悪い子、普通の子、みんなに同じ教え方をしていては落ちこぼれる子も現れるでしょう。だから、それぞれの能力や状況に応じたテキスト、参考資料、学習コースを用意し、みんなが無事に卒業できるよう工夫せねばならない。

つまり、生徒たち(衆生)がちゃんと卒業(解脱)する為に、各々のレベルやタイプに応じたピッタリな先生たち(仏、菩薩、明王、天)と教科書(経典)と学習コース(宗旨宗派)を各種取り揃える必要があったわけです。

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大学生活楽しんで下さい!

カメ子さんこんばんは。
拝読致しました。
春日井律舟と申します。
大変面白い質問ですよね!

何故仏陀一人を信仰しないのか?

以下私なりの答えです。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のGodは実は共通しており唯一です。みな同じGodです。
しかし信仰の対象としてはは他にもモーゼがおりキリストがおりムハンマドがおりその他大勢の天使や人間がおります。
上記3宗教が一神教と言われるのはGodの性質です。
Godは世界を創造し世界はGodの手の内にあります。唯一絶対です。他に神が入り込む余地は無いのです。

仏教と一括りにされますがその振り幅は広く宗派毎に別の宗教と言っても良いくらいです。
仰る通りいろいろな地域に広まるなかでその土地の神様と混ざっていきました。観音様はイラン出身説があります。

何故そうなったかと言うと仏教における仏陀は80歳で亡くなったただの人間なのです。
人々の悩みに答えただけのただの人間です。
なので仏教の世界観には神様が入り込む余地が幾らでもあったのです。
故にその土地土地に広める時に方便としてあらゆる神様仏様が取り入れられ融和したのだと思います。

個人的な感想を言えば原始仏教と観音信仰は大矛盾しています。
ですが私はどちらの考えもとても好きです。

取り止めのない回答で申し訳ありません。
質問を肴に晩酌しながらの回答です(^^)
ご質問有難うございます。
お休みなさいまし。

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春日井 律舟
1977年生まれ。 愛知県、春日井市にあるお寺で副住職をしています。 ...
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地球以外の浄土の仏様達

たとえば、阿弥陀仏に関して言うと、経典によれば、お釈迦様が弟子や信者に阿弥陀仏の存在、阿弥陀仏が造られた極楽浄土の存在を紹介してくださったことになっています。
仮に、本当に地球以外の浄土にたくさんの仏様達がいるとしたら、その仏様達は、地球人にも仏教を説きたかったはずです。
しかし、お釈迦様が出現するまでは、地球人には、仏様達の教えを理解する土壌がなかったのかもしれません。
それが、お釈迦様という連絡窓口ができたおかげで、他の仏様達は、地球人に教えを発信するチャンスができたのかも知れませんね。
宇宙にはきっと、量り知れないほど多数の仏様達がいます。
地球上に現れた一番最近の仏様はお釈迦様で、すでにお亡くなりになりましたが、お釈迦様を失った私達も、他の浄土の無量の仏様達を拝むことは可能なのです。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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色々な仏様

カメ子さま

色々な仏様がいらっしゃるのは、人の心がそれぞれ違うように、それぞれの仏様の心のありようも違うからであります。

もちろん、悟りというゴールは同じです。しかし仏様となるまでの修行の過程における心の経験の違いによって、悟り後の「はたらき」が異なってくるところとなるのであります。

詳しく申せば、悟りへと向けた「菩提心」の育み方、菩薩の時代における「誓願」の内容等の相違となります。

簡単には、「悟れば、〇〇をする」という志の違いと言えるでしょうか。。

そのため、仏様の持っておられる力もそれぞれで異なり、それぞれの力にて衆生の救済にあたられるのであります。

また、明王様や菩薩様も、それぞれの心の状態によっての「はたらき」をなさられており、それは、仏様の化身としての「はたらき」であったり、悟りへと向けた修行途上での「はたらき」であったりとします。

確かに色々な仏様、菩薩様、明王様がいらっしゃり、多神教的な感じを受けられるのは仕方がない面もありますが、衆生の救済のための色々な「はたらき」を持っておられるのだとお考えを頂けましたら有り難いことでございます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ