死ぬことを考えています
死ぬことを考えています。
死ぬことは、生からの救済なのでしょうか?
人生、生きれば生きるほど死に近づいていくものなのに、なぜ生きなくてはならないのでしょうか?
もしいま私に、全てにおいて自分自身に価値がなくとも這い上がれるような底抜けの自己肯定感があったとしても、死にたいと思ってしまうような気がします。
日常生活はとても穏やかに過ごせています。周囲の人間にも恵まれ、好きなことをして、失くしてから気付くようなタイプの幸せを失くす前に感じています。
けれど、死にたいのです。
すみません。以上です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
話してくれてありがとうございます
ウユニさんこんばんは。はじめまして。ご相談拝読しました。
「ウユニ」というお名前はひょっとしてウユニ塩湖からとったのでしょうか?とても神秘的で素敵な場所ですよね。いつか行ってみたいなあと私は思っています。
…あ、全然関係なかったらすみません。
さて、死にたい気持ちでいらっしゃるのですね。人間そういう時もあると思います。だからウユニさんがおかしいなどと私は全く思いません。
でも、そこまで思ってしまうならば、やはり何かに追い詰められて苦しんでいらっしゃるのだなと感じます。一緒にその原因や、問題に向き合う方向性を探れたら嬉しいです。
私たちは誰かに強制されて生かされているわけではありません。もしもウユニさんが世界中の人に死んでもいいか尋ねて「いいよ」と言われても、それで死ぬかどうかはまた別問題だと思います。
私たちが死ぬときは死ぬ縁がととのった時です。逆に生まれたのは生まれる縁がととのったからです。
縁というのは特定の何かでなく、数かぞえ切れないような条件や環境です。
その縁は自分で思う様にコントロールはできません。でもその中で降りかかってきた縁を引き受けられないままだときっと人生は虚しいと思うのです。
逆にどんなに辛く苦しい縁だろうと、それをこれが私がいただいたご縁だと引き受けられるならばそこには満足があると思うのです。
私たちにできるのは降りかかってくる縁に対し、「私はこうしよう!」と主体的に態度を選択することです。
その態度選択に「〇〇でなければならない」ということはありません。極端な話で言えば「生きなければならない」も「死ななければならない」もないのです。
でも願わくは、自分自身が本当に心の底から願っている態度選択であって欲しいと思います。
私たちはもしかしたら自分一人ではその自分の本当の願いに気づくことはできないのかもしれません。
死にたい事は周りの大事な人に相談してみましたか?大事な人だからこそ言えないということもあるかもしれません。
それなら「死にたい」ではなく「死にたいくらい辛い」というところから話してみましょう。
自分一人で抱え込んでしまうことが自分を追い詰めることにもなります。今回ここに話してくれて本当にありがとうございます。
是非、実際に関わる人ともウユニさんの思いを話してみましょう。