死は、すべての人に平等でしょうか
お金持ちも偉い人も、そうでな人も、死んでしまえば平等だと仏教は解いていますが、ほんとうにそうなんでしょうか? わたしの父方の遠い親戚は、99歳で会社の会長だったお爺さんが亡くなったさいに、マスコミが来るのを避けるため家族だけの密葬をし、その後、高級ホテルで2000人もの人を集めてお別れ会をしました。香典も花もお供えもすべて辞退されました。
対して、うちの夫方のおじいちゃんも同時期に亡くなりましたが、無年金、無保険だったため、夫とおばあちゃんが自腹を切って葬儀代を出し、通夜と葬式の家族葬をしましたが、お金がなかったため、香典も花もお供えもいただき、その代わり、お返しが大変大変でした。それでも100万近くは足が出て、その分は貯金から出しました。
死は平等だという言葉は、そういう意味ではないと頭ではわかっていますが、
会社を立ち上げ成功し、会長になった父方の親戚と、お金がなくて自分の墓すら買えない夫方の親とではひどく差があるように感じられ、悲しくなって涙が出てきてしまいます。
嫁姑問題!!
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親子の恩
本題と少しずれるかもしれませんが、一つ気になることがあります。
本人の貯えが少なく、子供や配偶者が本人の葬儀を持ち出しで行うことは、子供や配偶者として当たり前のことだと思います。自分の死や葬儀に対して、自分ではどうにもできなくて、縁者がやるかやらないか、どのようにやるかと苦労するのが、自然のことです。子供なら、人間に生まれさせてくれた親に対する孝行の一つなので、小さくてもきちんとお別れするのはよいことです。配偶者は、契約の関係ですから、信頼度に基づいてやればよいでしょう。
死にゆく本人にたまたま財産があれば、それを使って葬儀しても良いのですが、子供の親孝行の機会はその分減ってしまいます。
本題です。
死ぬという現象は、生きるという現象と同じで、万民共通です。誰もが必死に瞬間瞬間生きていて、身体がもたなくなると死にます。その生命現象は誰にも同じです。
しかし、どのように生きるか、どのように死ぬか、そして、どのように新たに生まれ変わるか、それは各生命ごとに千差万別です。善行為や悪行為が善業や悪業として心を作り突き動かし、次の自分を作っていくので、生きて死ぬという現象はみんな同じですが、それ以外の「生き方」は、人それぞれなのです。死後に生まれ変わってどこかに生きるその生き方も、人それぞれです。
会社で成功して死ぬときになってもお金がまだある生き方は、その面では成功です。配偶者や子供に葬式の面倒を見てもらうのは、それに比べると成功していないように見えるかもしれません。しかし、心の中身は、心に溜まった業は、どんなものなのか、傍からは分かりませんよ。
死者を見送る、葬儀をする、これらは遺された者の善行為なのですが、金銭面や時間や運営などの苦労と別に、心でどれだけ死者に感謝し死者の出立をお祝いしてあげられるか、こちらの心の持ちようで、善行為の大きさが変わってきます。業は心ですから、善業か悪業かは心によって変わるのです。
今からでも遅くありません。夫や義母に対して、義父の葬儀をお二人がしっかり行ってあげたことを、素晴らしいことをしたのだとほめてあげましょう。せっかく善行為をしたのですから、誰かと比べて、しかも表面的なことを比べて、その善業を減らさないように、むしろ、業の意味を知って、善業を増やせるように、心で頑張ってください。
質問者からのお礼
会長は、お金の苦労はありませんでしたが、葬儀を、マスコミに知られないようにこっそりとしかできませんでした。お金はたくさんあり、地位にも名声にも恵まれ、また、檀家になっているお寺を全額会長が負担し、新しく建て直したりもしていました。金持ち喧嘩せずとはこういうことかと、はたからうらやましく思っておりましたが、プライベートがなかったですね。それにたいして、うちの義理の父は、お金はありませんでしたが、自分の家族に看取られ、通夜も葬式も、本当に愛してくれる人たちとゆっくりと過ごすことができていました。夫が喪主をやっているときに、生んでくれてありがとう、育ててくれてありがとうと言っていましたが、葬儀とは感謝の気持ちで送り出す式だったんですね。今は、嫁ぎ先が生まれ育った家と違って貧しくて、ほかの人をうらやましがってばかりの煩悩の塊のわたしですが、がんばって健康と若さを保って、懸命に働いてちょこっとでもお金を子供のために残してやりたいと決意できました。