罪の記憶と繋がっているフラッシュバックへの対応
初めて投稿させて頂きます。私の幼少期の出来事のフラッシュバックについて、どう対処したら良いか分からず相談させて頂きます。
分かりにくく失礼かと思いますが、私の経験と似たような例え話で御意見を伺う事をお許し下さい。
昔、家族でやっている当たり屋という人達がおりました。子供を故意に車にぶつからせ、ケガをさせられたと言って運転手からお金を巻き上げる人達です。
彼らは犯罪者ですが、親が教唆犯であるのに対して、子供は教唆された側です。しかも、子供の方は親に見捨てられては生きて行けず、親の方も動いている車にぶつかってこいなどと言うだけあって、愛情も薄い。
そして愛情が薄い分、子供は見捨てられまいと必死に親を支え、愛し、「だから保護してくれ」と訴えます。例え話の中で、私は子供の立場にあります。
この子供が、自分を唯一可愛がってれた近所の大人を嵌めてこいと、親に指示されたとします。
子供は言われた通りに車にぶつかって行きました。親が騒ぎ、可愛がってくれた人は親に怒鳴られ、詰られ、お金を取られて、二度と会う事はありませんでした。
世間の人からすると、子供は被害者のように見えるようです。
ですが、親に指示されたとはいえ、子供の行いで酷い目に遭った人がいるのも真実です。
私の場合は犯罪ではありませんでしたが、ありもしない親の愛情を失う事を怖れるあまり、自分を愛し、信頼してくれていた人に本当に酷い事を致しました。
親に嫌われたくないなどと願った自分が愚かで醜く、到底許せません。もっと他に方法があったのではと思うと、今でもしばらく何も手に付かない状態になる事があります。
フラッシュバックについての他の方への回答を拝見いたしましたが、昔の嫌な記憶が自分の罪と繋がっている場合、それをそのままにしておくことや忘れる事は、更に重い罪にならないのでしょうか。
自分が酷い扱いを受けた記憶なら、いつか忘れる事もできます。しかし、罪の記憶を忘れたり、そんな事もあったなあとただ眺める事は、罪から逃れる事になるのではないのでしょうか。
しかし一方で、切り捨てずにいれば、フラッシュバックが起こっている間、何もできなくなって生活に支障が出ます。それもまた今の家族に迷惑を掛ける事となり、悪い事なのではないかと思うと、どうしたら良いか分からないのです。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分の罪を他の誰ならぬ自分が一番責めていらっしゃいますね。。
はじめまして。
質問拝見いたしました。
幼少期の子どもにとって親は子どもから見える世界の半分以上を占めています。ですからどんな親であっても子どもからすれば必死で好かれようとするのは当然だと思います。「ぼくを私を見捨てないで」と必死で「親にとって」よい子を演じます。
何人かそんな子供に接してきました。
みんないい子ですごく笑顔がきれいなんです。その満面の笑顔が「ぼくはいい子だよ。だからぼくを捨てないで!」って必死の叫びのようで、見ていて胸が痛くなりました。
ですので質問者さまの文面を見ていると精一杯必死で生きて来た質問者さまの一端が垣間見れた気がしました。
>親に嫌われたくないなどと願った自分が愚かで醜く、到底許せません。もっと他に方法があったのではと思うと、今でもしばらく何も手に付かない状態になる事があります。
大人になった「今」考えると、確かに他に方法があったのではないかと思ってしまいますよね。
でも、子供だった当時のあなたはそうすることでしか生きてこれなかったのではないでしょうか。正しいかどうかでは無くて、それが精一杯の生きる方法だったのではないでしょうか。
今はご自身の罪のことを深く考えてこられたのですね。年代からしておそらく20年近く罪の意識にさいなまされてきたのではないでしょうか?
それほどの長い期間苦しんでこられたのです。私はもう許されて良いのではないかと思います。
ただ、これは他人の私の意見です。この罪を一番許せないと考えておられるのは質問者さまご自身ではないでしょうか。
いつかご自身が自分の罪を許してあげられるようになれればと祈っています。
自分で自分を救う
罪とは、自分自身で作り上げるものでしょう。悪いことをしたと思ったら謝る。謝ることができないなら、その分他の人のためになることをする。
全て自分自身が救われるための行為です。人は常に新しい瞬間を生きています。昔など存在しない新しい世界です。そこでフラッシュバックが起きても、そのままにしておけばいい、今目の前の環境は何も問題ないはず。
過去の記憶は、記憶のまま、今の事実とは違うものとして、そっとしておけばいいのです。
そっとしておけないのであれば、人のために何か良いことをして、自分自身を救いましょう。
質問者からのお礼
投稿した日の夜に回答を頂いた事には気が付いていたのですが、お二方の回答を読んで考える事が多く、お礼の言葉がまとまらない内に日が過ぎてしまいました。遅れ馳せながらお礼を申し上げたいと思います。とてもお優しい回答をありがとうございました。
例え話の内容が内容だけに、お叱りの言葉を頂く事も覚悟していましたが、思いがけず暖かいお言葉を頂けたのが嬉しく、涙が流れました。
今までは当時の事と言えば事件ばかりが思い出されていたのですが、回答を頂いてから、それ以前にあった、綺麗な思い出をいくつか思い出しました。
だからと言って私のした事がなかったことにはなりませんが、今まで思い出すだけで辛かった記憶に、忘れていたこれらの楽しかった思い出が加わっただけでも、幾らか痛みが和らいだ気がします。お二方の優しいお言葉が、思い出せないようになっていた記憶をどこからか引き戻して下さったのではないかと思っています。
とりとめのない文章で申し訳ございませんが、今の所、「自分を許す」という事がどういう事なのか、私にはまだ分かりません。現状報告のようになってしまい恐縮ですが、これまでずっと一人で考えて煮詰まっていた所から一歩前へ、進めたような気がします。ありがとうございました。
追記:先日は大変ありがとうございました。お二方の御回答のお陰で、あれから大過なく過ごしております。
お二方の御回答を頂いてから一ヶ月程が経ち、だんだんと仰って頂いたことの意味がなんとなく分かるようになってきました。 「自分を許す」「過去は過去ままそっとしておく」、回答を読ませて頂いた当初は自分にはとてもできないと思っていました。そこに罪があるのに許すも許さないもない、そっとしておくなんて自分には無理だと思いました。
ですがあれからしばらく経ち、フラッシュバックの時間がだんだんと短くなっていっていることに気が付きました。最後にみた相手の方の姿が今でも思い出されるものの、フラッシュバックが「思い出そうとすれば思い出せるが、そのままにしておけばやがて流れて行くもの」へと変化してきました。
私の中で何か理屈や考えが変わったという訳ではありません。ですが、言葉にできない所で自分は確かに変わりつつあると思います。
関本様の回答が私に自分を許すことを教えて下さり、邦元様の回答が過去を過去として扱う事を教えて下さいました。お二方の回答が私を救って下さいました。 お二方の御健康と御多幸を心からお祈りしています。本当に有り難うございました。
追伸:私は幼い頃を仏教系の幼稚園で過ごしたことがあるのですが、当時は住職様の仰っている事の数分の一も理解していませんでした。ですが、分からないなりにやっていた座禅や内観が、お二方の回答を読ませて頂いて初めて「ああ、こういう意味だったのか」と腑に落ちてきました。 ここで当時の住職様にもお礼を書かせて下さい。あの時はありがとうございました。たまに来てはお菓子をくれるじいちゃんだとばかり思っていました。ごめんなさい。今頃は浄土にいらっしゃるのでしょうが、もしこれが住職様に届くことがあれば幸いです。有り難うございました。