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悟りについて。

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有り難し有り難し 16

悟りというものは例えば電車に乗っているときにお年寄りに席を譲る。すると喜ばれる。「ああ、こういうことをするといいんだな」と思う。
こういうのが悟りなのでしょうか?
何も本に書いていることだけじゃなくて、「日常の中でこうすると人はこうなる」という事を知るというのが悟りなのでしょうか?

2019年10月27日 21:30

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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煩悩が減ることが悟りでは?

私たちの心には、悩み苦しみの原因となる「煩悩」が何種類もあります。
その煩悩が減れば、悩み苦しみが減ります。
たとえば、比喩ですが、
窓に映った木の影を「幽霊だ」と勘違いしていたら、幽霊に対する恐怖が生まれます。
しかし、何かのきっかけで「幽霊じゃなく木の影だった」と気付いたら、恐怖はなくなります。
この「勘違い」が煩悩であり、悟りとは「勘違い」がなくなること、真実に気づくことではないでしょうか。

2019年10月27日 22:24
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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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悟った者のありようについて

しんさま

悟りという事態とは、いかなる事態であるのかを説明するために、私たちのように悟っていない凡夫の者のありよう、更に、煩悩(煩悩障)を無くして解脱した者(阿羅漢、独覚・縁覚・声聞の聖者、遠行地以上の菩薩)のありよう、更に、悟りの最後の妨げとなっている所知障を断じて、仏陀・如来となった者のありようの、それぞれがどのようにして世界を認識しているのかということを、整理して考えることが大切なところとなります。

以下の拙図がその三者の違いを表している簡単なものとなりますが、その内容の理解はそれぞれ非常に難しいところがございます。

https://stat.ameba.jp/user_images/20191110/09/sunyahide/59/79/j/o1080081014636056519.jpg?caw=800

仏陀・如来が世界をいかに認識し、またいかにして智慧・慈悲によるはたらきかけをなさられておられるのか、その理解へと向けては、チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパ大師の後期中観思想が大いに役立つところとなります。

しかし、その理解のためには、龍樹(ナーガールジュナ)大師以降における「空」と「縁起」、「世俗諦」と「勝義諦」の二つの真理に関しての思想から学び進めていかなければならないところとなります。

是非、悟りという事態を理解するためのキータームとして、「空」と「縁起」、「世俗諦」と「勝義諦」を留めおかれまして、仏教の修習を進めて下さりましたら、誠に有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

2019年10月28日 10:09
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質問者からのお礼

ありがとうございました。

「悟りとは」問答一覧

悟りと諦めの違い。

以前自身の周辺環境の事を憂いてご相談させて頂きました。 父からの性的虐待や盗撮、 塾教師にされた暴行。 それに伴うメンタルの上下の事などです。 黙する事を決め、未だ家族には言っていません。 離婚した父をずっと恨み仕返しをしようと常に何かを考えている母とは少し距離を置き、 父を赦し自分は誰も恨まず、 過去は終わっていてもう今とは関係ないから大丈夫、 仏様は見ているし良い事をして自分が良くなる事に努めればいい、 と、一時期良い方向に物事を考えられるようになりました。 ブラック企業に未だ在籍、あい変わらず園長は理解できないですが、頑張って続けています。 今年度は信頼できる先生と組む事ができ静かに保育を学んでいます。 ふいに、自身の生育環境のアレや子どもに寄り添えない気持ちを相談したくなりますが、話してはいません。 話したところで事実は変わらず、自分の保育の姿勢への正当化にもならないからです。 自分が子どもが苦手であるという情報は、保育士には不利な情報であり、誰にも理解されないとも思っています。 諦めがついた、 怒りを隠せるようになったのか、 子どもに対しての姿勢は穏やかになれましたが、 未だ、やはり子どもが苦手であり、話しているだけ、接しているだけで心身ともに痛みを感じることが毎日のようにあります。 一時期体調を崩した際 独り言が出ていたのですが、 「なんで?どうして。」「助けて。」 という、自分の今までの何かや周りに対する疑問が出ている事が多かったのですが、 最近は 「痛い痛い」とひたすら不調を訴えるものに変わりました。 いずれ生き物である限り、人は皆無事死ぬし、浄土で救われる。 と思っているのですが、 最近の自分の心情は、 恨んだところで、怒ったところで何も変わらない、静かにしていれば、人に優しく穏やかにしていれば大丈夫、と思いながら、 心身ともに不調が続き、どこもかしこも痛みがあります。 子どもが光であるとも思えず、抱きついて私を刺してくる針のように感じ、また、子供を尊く思う保護者や教育者の心情にも寄り添えません。 子供が欲しい気持ちもなく理解ができず、孤独を感じます。 欲しくないとも言えません。 絶望のような、どこにも行けず、生きている限り地獄である、と思うような事もあります。 諦めと悟りの違い、どうすれば穏やかに過ごせるか、お力添えを宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 23
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無欲と悟りと病気の違いは?

近頃、さっぱりと欲が無くなってしまいました。 食欲がありません。食べてたまに吐き戻しています。 眠れません。薬を飲んで寝ています。 性欲はもとから少ないです。でも、人の温度は好きでした。今はなくても平気です。 買い物が好きでした。今は欲しいものがありません。 行きたいところが沢山ありました。今は近所のスーパーがやっとです。 未来にいっぱい、「欲しい」「やりたい」「こうなりたい」がありました。 自分一人の力でどうにかなるものは手に入れました。(アクセサリーなど) 自分一人の力ではどうにかできないものは諦めました。(友達、家庭など) ちょっと前までは悲しくて、不安で、仕方なかったんです。安定や、優しさがほしくてたまらなかった。 長い間いっぱい努力しました。でも手に入らないんだって気付いて、そうしたら憑き物が落ちたように、心が穏やか?になりました。 今は、人に迷惑をできるだけかけず、死ぬ準備を進めています。 世の中の全てが愛らしく感じます。私に縁が無かっただけで、素晴らしいものが沢山あると、本気で思っています。 これは悟りに近い感情なんでしょうか? それとも、薬の飲み過ぎで、頭がおかしくなってしまっているんでしょうか?

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悟りとは..............?

こんにちは。お世話になっております。僕は真理を求めて仏法を学び、座禅の修行も行っている在家信者です。 僕は印可を受けたとされるお坊さん(名前は書きません)の本や法話を聞いたことがあります。 ※この方は禅宗の方です。 僕は、そのお坊さんの言っていることを「なるほど」、「たしかにそうだ」と深く納得することができます。僕が悟りを得ていると言うと、明らかにおこがましいお話です。 ですが、個人的には若干な手応えがあります。 これは曹洞宗でのお話ですが、「修証一致」という言葉、これは「修行させてもらっている」と言えると思います。なぜ修行できるのか、それは生かされているから。修行していることが仏法の中に生きている何よりの証拠、ということから修証一致思想が出来たのだと思います。 だとしたら、草木国土悉皆成仏も理解できます。草木や国土さえも、仏法の中にある命そのものなので、仏そのもの。成仏は仏に成るというよりも、仏に成っている、ということだと思います。これが「無功徳」や「無智亦無得」だと思います。自己そのものが仏法なのだから、得るべきものがない。 この身心さえも、自己を超越している。眼耳鼻舌身意、これら全て苦です。見えるというより、見えてしまう。聞こえるというより、聞こえてしまう。意識だって、考えたくなくても座禅をしていると勝手に雑念が出てくるものです。「自己」と定義できるものはどこにもない。このことから、自己(妄想)と法を分けることができないのは明らかです。自分の五感を通して物事を認識していると考えますが、事実はその身心も仏法の働きです。 ですが、ここからがよく分からない。僕のは結局、理屈に過ぎないんじゃないか?と思っています。もちろん、理屈では自分は仏だということは分かります。しかし、それを実感できていないのです。現段階では、「自分が無い」というより、「今まで自分自分って言ってたけど、自分って何?」 「自分」というものが分からなくなった感じです。ここからが本題ですが、悟りというのは本当に実感として自分が無くなる感覚になるのか?ということです。つまり、悟りというのは「境地(特別な心境)」なのか、ということです。 仏教に詳しい方、ぜひ教えて頂きたいです。

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人間の悟り(覚り)とは

こんばんは。僕は仏教を学んでいる者(迷走中)です。 僕は真宗を中心としていままで学んできましたが、最近では曹洞宗や黄檗宗、臨済宗など禅宗にも興味を持っています。 そこで大きな疑問が湧きました。悟り(真宗では覚り)についてです。 悟りは超訳すると、「煩悩が消えて物事をあるがまま観ることができる境地(無分別智)」ですよね。 曹洞宗の道元禅師は、正法眼蔵に「唯仏与仏」という言葉を残していますが、意味は「悟りの境地は仏にしか分からず、人間には分からないものだ」と理解しています。 僕が間違っていなければですが、道元禅師は悟り(一体どんな意味の悟りなのか定かではありませんが)の境地に至った人だと理解しています。黄檗宗の隠元も悟ったと理解しています。 真宗では「煩悩具足」と言われ、「人間は煩悩そのもの。煩悩は消えない」という前提で説かれています。ですが、真宗でも「覚り」という表現をする。 人間には悟りを開けない。これは、結構理屈で考えても分かりますよね。煩悩は消えないし、誰でも人間の本性(自己中心性)は無くならない。 歴史上では、仏陀(ゴータマ)が悟りに到達したみたいですが、仏陀に関してはそもそも人間ではなく仏なので悟ることができたのではないかと思います。 ところが、人間である道元や隠元、良寛など悟りに到達した人物が存在するみたいです。 これはどういうことでしょうか?いわゆる「生死即涅槃」や「煩悩即菩提」に到達したということですか? しかし、基本的には煩悩が消えた状態の悟りを目指すべきですよね。だからこそ、浄土系の仏教では死後の成仏に救いを求めるはずです。 仏教の目的とも言える「悟り」に到達できないという問題は、仏教の存在意義も問われる問題だと思います。 仏陀の悟りと禅宗や真宗などの悟り(覚り)とは、どう違うのか分かりやすく回答していただけると有難いです。

有り難し有り難し 16
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悟りが得られないです

執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。

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