悟りについて。
悟りというものは例えば電車に乗っているときにお年寄りに席を譲る。すると喜ばれる。「ああ、こういうことをするといいんだな」と思う。
こういうのが悟りなのでしょうか?
何も本に書いていることだけじゃなくて、「日常の中でこうすると人はこうなる」という事を知るというのが悟りなのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
煩悩が減ることが悟りでは?
私たちの心には、悩み苦しみの原因となる「煩悩」が何種類もあります。
その煩悩が減れば、悩み苦しみが減ります。
たとえば、比喩ですが、
窓に映った木の影を「幽霊だ」と勘違いしていたら、幽霊に対する恐怖が生まれます。
しかし、何かのきっかけで「幽霊じゃなく木の影だった」と気付いたら、恐怖はなくなります。
この「勘違い」が煩悩であり、悟りとは「勘違い」がなくなること、真実に気づくことではないでしょうか。
悟った者のありようについて
しんさま
悟りという事態とは、いかなる事態であるのかを説明するために、私たちのように悟っていない凡夫の者のありよう、更に、煩悩(煩悩障)を無くして解脱した者(阿羅漢、独覚・縁覚・声聞の聖者、遠行地以上の菩薩)のありよう、更に、悟りの最後の妨げとなっている所知障を断じて、仏陀・如来となった者のありようの、それぞれがどのようにして世界を認識しているのかということを、整理して考えることが大切なところとなります。
以下の拙図がその三者の違いを表している簡単なものとなりますが、その内容の理解はそれぞれ非常に難しいところがございます。
https://stat.ameba.jp/user_images/20191110/09/sunyahide/59/79/j/o1080081014636056519.jpg?caw=800
仏陀・如来が世界をいかに認識し、またいかにして智慧・慈悲によるはたらきかけをなさられておられるのか、その理解へと向けては、チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパ大師の後期中観思想が大いに役立つところとなります。
しかし、その理解のためには、龍樹(ナーガールジュナ)大師以降における「空」と「縁起」、「世俗諦」と「勝義諦」の二つの真理に関しての思想から学び進めていかなければならないところとなります。
是非、悟りという事態を理解するためのキータームとして、「空」と「縁起」、「世俗諦」と「勝義諦」を留めおかれまして、仏教の修習を進めて下さりましたら、誠に有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました。