涅槃に至った精神の状態についてのご質問。
ぎんりんと申します。よろしくお願いいたします。
仏教の本を読むと、涅槃とは、精神が何物によっても動かされず、無常の世において常に自らの心を安らかに保てる状態だとあります。
という事は、涅槃に至った仏は、家族や親友が亡くなっても、悲しみに打ちひしがれず、とても楽しい事があっても、人々と喜びを分かち合うことは無いのでしょうか。
私のような凡夫から見ると、なんだかとても寂しいなぁと思ってしまいます。
仏陀は、世の人々を皆この境地へと引き上げることを使命として自らに課されたそうですが、何事への愛執も無ければ、人々は子供を作らないだろうし、文化も芸術も何も生まれないはずです。
仏陀のご意志が達成され、皆が悟りを得た世の中になれば、無味乾燥な世の中になり、やがては人類は姿を消してしまうように思うのですが、仏陀はそれもまた良しとされていたのでしょうか。
仏教を少し齧った者が初めに通るような疑問で恐縮ですが、どうかご教授頂けますと幸甚に存じます。
お坊さんからの回答 4件
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大枠の理屈の上ではそうなるかもしれません
確かに大枠の理屈の上ではそうなるかもしれません。
しかし、そうであるならこの世のすべての人間が仏陀の示された寂静の世界に住むことができるようになり、生きる苦しさからも死の恐れからも解放されたわけですから、何も不都合なことはありません。
死は必ず生命に訪れるものですから、遅かれ早かれ、また、全体としてどんな規模になったとしても、とりあえずは涅槃に住んでいるか否かということとは関係ありません。
生命は何らかの宿業によって生じます。喜怒哀楽は業の種ですから、それを感じる生命がある限り必ずまた次の生命が生じます。ですから、ぎんりんさんのように(そして、おそらくは人間のほとんどが同じように)感じる限り、人間を含めた生命は消滅しないでしょう。
あまり気にすることはないと思います。
涅槃は…
涅槃は寂静と申しますが、ひとたびそれを体験しようとも、肉体の活動はひとときも止むところはなく、また、精神(こころ)も引き続きありのままに働きましょう。ただし、思考や判断といった、精神活動のパターンばかりは変わってしまうことはあるでしょう。すべてを受け入れ、無理をせず、出来ることを精一杯なしていくような、人にやさしい(ひとさまに対しても自分自身に対しても)、そのような人間に備わる本来性のもとで、それゆえおおいに、他者とは異なる自身の「個性」というようなものも素のまま発揮されていくようになるものと思われます。
ご質問のように、人の心が枯れてしまう、感情が無くなってしまう、というようなことはなく、むしろ感情を感情のままに、心を心のままに、まっすぐ体験することこそが盛んになるのでありましょう。ですから、涅槃の人こそ、泣く時には心の底から嘘偽りなく泣き、嬉しいことがあれば心の底から喜ぶものと、拙僧はそのように理解しております。(きっとお釈迦さまもそのようなキラキラした方だったからこそ、多くの人が魅了され付き従ったのではなかったでしょうか)
けだし、人類すべての人が”生”の本源的苦しみに気がつくわけもなく、その逃れようのない苦しみと向き合うその真っ只中で真実に目を開かれ、涅槃の妙味を味わうようなことも、そうそうございますまい。
ですから、もしもぎんりんさんがそのような妙味に触れることがこの先ございましたならば、そのときにはぜひ心のままに吟味していただきたいと思うばかりでございます。
そわか合掌
究極の大人
悟った人は、究極の大人になるのだと思います。
例えば、私達大人は2歳児に比べれば喜怒哀楽は激しくないし、感情は落ち着いていますね。
じゃあ、2歳児に戻りたいか?2歳児の方が幸せか?と問われたら、少なくとも私は今の精神年齢の方が良いと思います。
仏様から見れば私達は幼児並みに愚かで落ち着きがなく、大人から見れば大した問題じゃないことでもいちいち泣き喚いているのかもしれませんね。
スマナサーラ長老の
本やyoutubeに、悟った後の心の状態について語ったものも何種類かあります。
探して、ご覧になってください。その心がよく、推測できます。