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交通事故で死んでしまった動物の供養

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 寒くなって食べ物がなくなってきたせいか、近頃市街に動物が頻繁に出現します。そして不運にも交通事故に合い命を落とす動物が増えています。
 先日、家の前に無残にも車で轢かれたであろう犬二匹がいました。親子であろうかと思います。死んでも尚、親犬が子犬に寄り添っている姿をみて強い衝撃を受けました。
 死骸は清掃の方が来られて回収されましたが、私には複雑な感情が混じり合っていました。動物であろうと子を大切に思う親の愛への感動。命を奪われた悲しみ。人間の勝手で命を奪ったという行き場のない怒り。
 来世があるのであれば、この親子に次は幸せな家庭で暮らしてほしいと強く願います。

動物の供養の正しい方法をご教授願えないでしょうか?
未熟な自分に出来ることは何かないでしょうか?
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

菩提心と三帰戒

明治の名僧「奕堂禅師」(曹洞宗大本山総持寺独住第一世栴崖奕堂大和尚)はこれから屠殺場に向かう牛に三帰戒を授けてあげた時、その牛が涙を流したという逸話が残っております。
三帰戒とは「南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧」と仏法僧の三宝を拠り所として帰依=身も心もお任せするというお念じと捉えて頂ければよいでしょう。
その内容は、唱える側も受ける側もその功徳によって天地の理法に身を任せる心に導かれるというものです。
自我や己見という小さな心から脱し、無私無我の心が生じ自身の小さな枠から脱する大きな功徳が生ずるものです。思考のはかり知るところではない思考以前の世界への目覚め。人はそこに目覚めることによって心底救われるのです。そういう所を神や仏ということばであらわしているのであって、決して絵空事ではありません。
では、なぜ仏法僧の三宝に帰依することが最上の功徳なのか。
それは人間の世界の人間のルール、人間の心情・感情、人間の価値観というものはどうしてもわが身を中心とした人間独自の価値観なので、どうしても大自然の理法に逆らうところがある。
人も動物もあらゆる生命がいつか個人・個体としての生命に別れを告げなければならない。いや、すでに私たちのこの生命体そのものが共同体・共存体です。
他の生命、菌類、細胞、億千万を超える生命体を超えた細胞の働きの集合体であるのがものの命です。
この命を「わたくしに費やさざる(道元禅師)」という生き方が仏法の川の流れと和合する大生命活動なのです。
「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧。」
その向かう先を菩提心として、生命が最高の境涯に導かれるべく唱えることです。
菩提心とは悟りや涅槃よりも尊い仏教の最高の精神と言えましょう。
お釈迦さまも道元禅師も奕堂禅師も菩提心があったから無上菩提を証さ(明らめら)れ、多くの方を救いへの導かれた大導師となられたのです。
人はこの世に生まれてきた以上、誰もが導師となるべきです。
その導き先、向かう先はあらゆる苦しみを超え、悲しみも超えた確かな境涯。
安らいの心や無上菩提=悟りに導くのが仏道人の務めです。
あなたが今その心をおこす機縁とするべきなのです。
動物たち…何とかしてやりたい。
その心を今菩提心に向かわせるのです。
菩提心・菩提道が行ぜられるところ、救われざる者はないのです。
南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

起床後、確かにそこにあった命の元で三帰戒を唱えることで複雑な感情がすぅっと抜け、朝の香りを吸い込むと共に一日を新しい気持ちで過ごすことが出来ています。
有り難いお言葉をありがとうございました。
これからもよろしくお願い申し上げます。

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