娘と自分の子ども時代を重ねてしまいます
娘が2歳になりました。
保育園でも家でもイヤイヤがひどく、先生たちも色々と手を焼いているようです。
言葉は早い方だと思うのですが、同年代の子と比べても癇癪・不機嫌・主張が激しすぎるようです。
(私自身、当時を振り返ったり母と話すと、育てにくい子どもだったのかなと感じていますし、娘にも何らかの発達の凸凹はあるのかなと感じています)
そんな娘との向き合い方と私自身について悩んでいます。
私が思春期の頃、母が鬱を患い、薬の大量服薬による救急搬送や薬の離脱による錯乱に付き添ったりという過去があり、頭では理解しているつもりでも、いまだに”子ども時代に傷ついた“という被害者意識から抜け出せず、私自身がどこか成長過程の積み残しがあるように感じています。トラウマというよりも、「被害者だから仕方ない」というような甘ったれた考えに無意識に陥ってしまうことが多々あります。
私の未熟さの原因は当事者意識の無さ、責任転嫁をしやすいという感じでしょうか。
実際、30後半になった今でも、仕事場や夫に対して、その場を取り繕うために嘘をつくなど、自分でも驚くほど稚拙な行動をしてしまうことがあります。そういう行動をとっている時の事を振り返ってみると、どこかで他人事、私のせいじゃない という意識があるように感じます。それだけなら自分の問題で済むのでしょうが、自分に育てられる娘に対しても、先述の”被害者意識“の眼差しをむけてしまうことがあります。
ついつい「他の家に生まれたらもっと素直に育てられたのに」とか、癇癪を起こしているときには「他のお母さんが対応していたらそもそもこんなことで癇癪起こさなかったのにね」など考えてしまいます。
ひどい時には私の母が鬱で苦しんだせいで私も娘もうまく育てられず、未熟な人間、癇癪の多い子どもになったと考えてしまいます。頭ではわかっているのですが、癇癪を起こす娘と対峙するとき、どこかに思春期、母の鬱に苦しんだ自分を見ているように感じてしまいます。
私自身の未熟さと娘との関わり方や癇癪は、わけて考えるべきなのだと思うのですが、1人で悩んでいるとこの2つが堂々巡りで頭の中をぐるぐるしてしまい、どう捉えて生きていけばよいかわからなくなってしまいました。
長文、乱文申し訳ありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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自分の中の子供を癒す。
Siraco 様 相談ありがとうございます。
子育てなどで、お疲れのご様子ですね。
あなたの思春期の体験。お母様が欝で大量の服薬をしたときの体験。その時の自分や幼い時・若い時の自分を癒すことが必要じゃないかと私は思いました。
その時の自分を思い出して、語りかけるのです。
「その時の自分は、精一杯やってきた、幼かったんだからその時の出来る事はしたのだから、もう自分を責めるのを止めよう。傷ついたと思うのをやめよう」
幼い自分に向かって
「沢山、お母さんに貢献したね、いいよそれで」
「だから、優しく接することもできたよね」
「あなたはそれでも成長したね、(今、大人である私は、)凄いと思うよ」
「ゆっくり抱きしめてあげるから、安心していいんだよ」
「泣きたいときは泣いて、怒りたいときは怒って、それをちゃんと受けいれるからね」等の言葉で、幼き頃、若き頃、思春期の体験した時の自分を癒してください。
愛情をもって優しく癒してください。
貴女の隣に、椅子を置いてその椅子に語りかけてもいいし、ぬいぐるみを幼き自分と見立てて語り掛けてもいい。そうして、自分の中の子供を癒すのです。
自分の中の子供を癒すことで、自分が未熟だという思いから解放されていきます。自分の中に愛情がしっかりと備わっていることが確認できます。そして人に優しく接することができますし、思いやりをもって接することができます。自分に対しても思いやりをもち、自律が保てるようになります。
お嬢様に対しても、これまで以上に、思いやり・優しさ・愛情をもって子育てができ、癇癪に対しても丁寧な対応ができると思います。
キーワードは、
自分の中の子供を癒す。愛情・思いやりを他人にも自分にも向けるです。
意識してみてください。
お読みいただきありがとうございました。
一礼
質問者からのお礼
釋 孝修 様
ありがとうございます。読んでいるだけで、子どもだった私がそこにいるような気がして涙が出てきました。
”癇癪に対して丁寧に対応ができる“という言葉で何か腑に落ちたような気がします。
仕事や泣いて怒る娘を見て何が辛いのか、自分で自覚できずにいましたが、娘に癇癪を起こされることではなく、丁寧に対応できないことが辛いのだと気づきました。自分とも娘や他人とも、丁寧に接していけるよう心がけます。ありがとうございます。