嫌われるのが怖いです。
10代、学生で三姉妹の次女です。
昔から変わらず優しいねとよく言われます。
昔はきっと本当に優しかったんです。
人に喜んでもらうことが嬉しかったんです。
しかし、いつからか周りの人に嫌われないために優しいふりをするようになりました。
家事を手伝ったりするのも1人で3人も育ててくれる母に見損なわれたくないからです。(家族関係は悪くありません)
自分の意見を抑制して周りに流されるように同意ばかりしています。
もう、自分の気持ちが何なのかわからなくなってしまいました。
時々祖母に冷たくなってしまい、「昔は優しかったのに、理屈っぽくなった」と言われます。
それだけのことですが、今の私は祖母には必要ないんだ。と思い悩みます。
私が全て悪いんだ。
私が我慢すればいいんだと決めつけて、さらに自分を隠そうとします。
それがうまくいかず、存在を無かったことにしたいと思う日が多くなりました。
本当は存在を認めて欲しいんだと頭では理解しています。
自分の意見を主張できるようになりたいのかと思います。
ただ、私が一体何を考えているのかわかりません。
完璧主義なのかもしれません。
恵まれた家庭で、贅沢なわがままだと思う方もいるかもしれません。
不快な思いにさせてしまったらごめんなさい。
叱責でも激励でも頂いた回答は真摯に受け止めるつもりです。
支離滅裂な拙い文でごめんなさい。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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人に嫌われないための「正語」
こんばんは。亀山純史と申します。
「人に嫌われないための行動=自分の意見を抑制し、周りに同意すること」ではありませんね。また、「自分の意見を抑制し、周りに同意すること」は「人に喜んでもらうこと」でもありません。もちろん、自分の考えに賛同してくれる人がいることに対して、不快に思う人はいないでしょう。しかし、自分の考えに対して、真剣に考えてくれる人のほうを、何でも‟Yes”としか言わない人よりも、私は頼りにしたいと思います。私たちはみんな不安な気持ちを持ちながら、生活をしています。だから、一見すると、自分に対して何でも‟Yes”と言ってくれる人を求めるように思うかもしれませんが、そのような人との付き合いに対しては、いずれ物足りなさを感じてくると思います。それは、そのような付き合いは、自分自身を向上させてくれるものではないからです。
さて、私たちはだれでも人に嫌われたくない、という思いはあるでしょう。それは人は自分一人だけで生きていくことは出来ず、必ず他人との関わり合いの中で生きていかざるを得ない存在だからです。では、「人に嫌われないための行動」はどのようなものでしょうか。お釈迦様の教えに、「八正道(はっしょうどう)」というものがあります。「八つの正しい道」ということです。その中に、「正語(しょうご)」という道があります。それは「正しい言葉を使う」ということですが、具体的には、相手をだますためや自分を偽るための嘘をつかないこと、自分本位の二枚舌を使わないこと、相手を傷つけるような悪口をつかないこと、口からの出まかせなどを言わないこと、が挙げられます。つまり、何に対しても‟Yes”としか言わないことは、正しい言葉を使うこと(正語)ではないのです。相手の立場に寄り添いながら、必要に応じて、自分の考えを相手に伝えていくことが大切なのですね。言うは易く行うは難しですが。そして、この「正語」という教えは、人に喜んでもらえることへも繋がっていくことでしょう。
以上が私からの回答ですが、人との上手な付き合い方は、誰にとっても簡単なことではありませんよね。私からの回答が少しでもお役に立てればと思っています。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
正語、簡単なことではないと思いますが意識してみます。
いつか本当の意味で人に喜んでもらう行動ができるように頑張ります。