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人に嫌われるのが怖いです

回答数回答 1
有り難し有り難し 9

ただ普通に仕事してるだけなのに、同僚に嫌われたかもって思い込んでしまいます。
普通に仕事をこなして、普通に会話しててもそう思ってしまい、1日の疲れが取れません。
人に嫌われるのが怖いです。人の目や周りからの評価を気にしてしまいます、、

2023年10月19日 21:51

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

嫌われるのは頭の世界 現実はそれ以上増えも減りもしない

嫌われてもあなたから何かが減るわけでもありません。
芸能人や政治家や著名人は嫌われてもピンピンしてます。
嫌われるという事の表面的なアクションよりももっと別の効能に目を向けてみましょう。
一目置かれている。
注目されている。
人の関心が寄せられている。
その人に負けたくない心理がある。
より高い要素があれば百点。
所詮は人のいう事。
本人が勝手につぶやいているだけ。
別のメッセージがある。
人は他人に対して、その他人様が自分ではないのですが、高い人間性を要求する面があります。あるいは自分の理想を要求する面があります。
ですが、あなたはあなた。あの人はあの人。
嫌うという行為、アクション、心理的な態度も実在するものではありません。
ただ、恩讐・怨念レベルになれば害が身に及ぶという事はあるでしょうが、好き嫌いというものは誰にでもあるものです。芸能人を見てください。みんなを好きになれますか?好き嫌いがあるでしょう。それでよいのです。

あなたはおそらくは嫌われたくないのではなく、人から嫌われるということはまるで命を失うかのような大事として誤解されているだけではないでしょうか。
あなたも学生時代に嫌いな人がいたでしょうが、あなたがいくら嫌ってもその人にはまるで影響は及びません。だからこそ、嫌うという心の働きをよく熟知するべきです。あの人は嫌いだ、あれは嫌いだ、あれは遠ざけたい、あれは扱いづらい、あのことは私は好きになれない、あのことは私にはかかわりづらい、あの人、あの事がもう少し私の願い通りになれば私には何の反発心も生まれない…。
嫌いという心の心理はおよそ反発ですから、ちょっとした誤解やすれ違い、認識不足の面があるのではないでしょうか。
人は頭の中でそのことを嫌うという事よりも、事実という事の方が大真実なのです。
事実は一つだけ。その事実に対する評価は好きも嫌いも楽しいもつまらないも色々あるでしょう。事実にはかなわないのです。あなたはあなたという生命存在です。もちろん、なるべく嫌われないように工夫をするために人間心理を学ぶことも大切です。ですが、嫌われることを恐れるという自分の心理を良く見つめてみてください。
本当は何も失うことなどないのに、過剰に嫌われたくない、嫌われたらひどい目に合うかもしれないという誤解や恐怖心なのかもしれません。
恐怖は知ることによって消えます。

2023年10月19日 22:12
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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