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未来のことを考えすぎてつらい

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有り難し有り難し 35

最近、よく、寝るぞ!と電気を消した時に、大人になった時、親がいつかは死んでしまう事、自分が老いていく事などを考えてしまい、寝れずにいます。こういう時、どうすればいいですか?ポジティブになれる考え方を教えてください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死んでしまっても大丈夫になれる心。それが仏教です。

どんな苦しみも迷いも乗り越えたいと思うことです。
明日天気が晴れても曇りでも雨でもそれを「雨だと濡れて嫌だ、曇りはじめじめして陰鬱だ、晴れたら暑くていやだ」などと思ってしまうのは自分です。考え方で暗くなったり、嫌な気持ちに向かわせているだけなのです。
そうではなく「雨なら空気が潤って助かる、曇りなら日差し避けになって助かる、晴れなら暖かくて助かる」というような、気持ちを授かりや恵まれていることに向けることです。
人間は今、息をしているだけでも恵まれているのです。ありがたいことです。
周りによって支えられている。
見ず知らずの人がこうしてネットを通じて助けてくれる。
誰が作ってくれたのかわからなくてもスマホがある、電気がある、温かい服がある、狩りをしなくても手に入る食事がある。
私どもはそうして恵まれているのです。
そういう優しい関係性や、自分を陰ながら支えてくれている存在に目を向けてみましょう。必ずあなたと同じ悩みにも直面した方々があなたを納得させてくれる教えやチエ、アイデアを提供してくれるでしょう。
そういうことを求めて宝さがしに出かけるように求めてみることです。
その為にこそ、仏教やお寺は存在してるのです。
文字でお伝えすることもできますが、どんなに素晴らしい回答よりもあなたがあなたの一番納得する答えを見つけることが大事だとおもいます。
雪が降っても小さい頃は笑って雪遊びをしていたはずでしょう。
本当はすべての出来事はそのまま授かっているのです。
仮にいつしかお父様やお母さまとのお別れの時が来たとしても、それでも人生の先輩たちや仏教を学んだ人たちはそれでも大丈夫になれる宝のような生き方が手に入っているのです。
わたしもそうなってみたい!
是非やってみよう!という思いを持つことです。
強く持てば強く持つほどに素晴らしい叡智や力が授かります。
「念ずれば花開く」
どんな迷いも苦しみも拭い去ってくれる心を求めましょう。
強く念じて輝かしい光を求めるようにいたしましょう。
何があっても大丈夫です。
私もそういう心を広めております。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

一度は考えますね。

究極の悩みですね。誰もいつかは、歳をとり病気になり、やがては死んでしまうという、自然の流れのことですが、いざこのことを身内や自分に当てはめて考えると、どんどんと不安になり悲しくなってきます。

まず、この生老病死は、何人も絶対に避けられないということです。お釈迦様もこのことを避けることは無理であり、さらにこのことで悩んでも仕方ないと最初に覚られた内容です。
どんなことをしても避けることはできないなら、抵抗するのは無駄なことであり、しかも、現実に直面した時は、どのようになっているかも分かりません。なってもないのに悩むのも解決しない訳ですから、考えることさえ無理があります。

このような悩みは一度は誰でも経験するかもしれません。又、決して悪いことでもありませんし、大切なことかもしれませんが、いつまでも悩むことでもありません。今回、こうして悩まれたのですから、ある程度納得できたら、次に進みましょう。

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有り難し
おきもち

日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにもにある”と発願し、法筵寺を新寺建立。住職として41年になります。どこまで、その思いを達成しているか分かりませんが、少しでもお釈迦様、日蓮聖人の教えに触れて頂けたら思います。 FB https://www.facebook.com/kaisho.suzuki 法筵寺FB https://www.facebook.com/houenji/ 日蓮宗ポータブルサイト内 https://temple.nichiren.or.jp/3031069-houenji/

質問者からのお礼

ありがとうございました。

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