敵をつくってしまう
私は昔から長いものに巻かれることや迎合することが嫌いで、立場関係なくおかしいと思うことは言ってしまうところがあります。
嫌いな人に態度に出さないように我慢してても、その人が許せないことをするとついはっきり言ってしまうんです。
大体そういう相手は敵にするとかなりめんどくさい人です。
だから周りも上手く合わせて付き合ってるのに、私にはそれがどうしても出来ない。
今回は衝突した相手が悪くて、仲良くしてる人達の私に対する態度も変わってきてしまっています。
独善的にならないようにと思って行動してるつもりでしたが、結局は独善的で、私が浮いてるだけなのかもしれません…。
衝突する時の相手はいつもその言動が無視できないだけではなく、その人の性格がどうしても嫌いで、前から溜まりに溜まったものが出てしまうんだと思います。
それでも適当に上手く関わっていける周りの人が羨ましいようで、憎く思ってしまいます。
私はこの考えを変えるべきなのでしょうか…。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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人間は失敗するのが当たり前
拝読させていただきました。
そう思うことは人は誰しもあるものです。しかしながら、私たちも生きていく中で、何かしらに失敗はする生き物であります。
しかし、「失敗」ということに気付くことができるのは人間だからであり、他の生き物には失敗や後悔という観念は持っていません。
限られた私たちの寿命に大切なのは日々を生きることであり、かの仏教の開祖お釈迦さまは「他人のしたことを見るなかれ、自分のやったこととやっていないことだけを見なさい」と言っております。
お釈迦さまの言う通り、失敗は自身で気づいていくことであるということです。
皆、社会に出ると年齢や育った環境は異なり、流行りのものや話し方、雰囲気の感じ方も十人十色です。
人は自身の「基準(普通)」を持っているものです。その自身が持っている普通という観念に自身が捉われている傾向が強いかもしれないですね。
仏教ではこれを執着とも捉えます。自身の夢や希望を追い求める執着は、精進(努力)となり成長へと心身ともに繋がるものです。しかし、夢を他人を巻き込んで、こうしたほうが良いと言われてしまうと、その夢には私たちには関係ないから、巻き込まないでという捉え方を相手はしてしまうでしょう。
年々、年齢とともに私たちは出会う人たちは変化していきます。私はこうであるという信念は心に留め、他人の言動に自身の基準を持っていかないようにしてみてはどうでしょう。
「四苦八苦」は耳にしたことはあると思います。こちらの中には8つの苦しみがあり、その中の一つである「求不得苦」とあります。こちらは「求めるものが得られない」と簡略して説明いたします。思うようには世の常いかないことが当たり前なんだということを仏教では伝えています。
だからこそ、当たり前に求めるものが得られないのであれば、妥協点も普通という基準の中に少し入れていくことで、生き方に「楽」というものが手に入れられます。
急いては事を仕損じるとあるように、時間は誰しにも平等であり、ゆっくりと流れています。
穏やかな人生を歩むために、心平安な日々が訪れますよう心よりご祈念申し上げます。
合掌
質問者からのお礼
回答ありがとうございました。