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疲れた、死にたいです

回答数回答 2
有り難し有り難し 26

初めて質問させていただきます。
家事、仕事にと自分の時間など取れない位に忙しく、疲れ果てました。

疲れていつも不機嫌な私を見て、家族は皆呆れています。
唯一の楽しみはお酒を飲む事でしたが
日に日に量は増え、飲んで荒れるので、アル中だと思います。

こんな自分が情けないし、生きていても家族に害だと思うようになりました。
どうすればいいのですか?
死んだら全て終わりなのはわかっています。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人生はいくらでもかえることができると思います。

初めまして、こんにちは。

ひとみさんはきっと頑張りすぎて、心のエネルギーが空っぽのままそれでも頑張らなきゃ・・と言う状態になっているのではないでしょうか・・?

此岸(この世)は苦しいことや辛いことが沢山ありますが、その難儀する出来事や現状はいつか必ず変わるのです。私自身も、様々な試練が次々と現れては、落ちるところまで落ち・・何度も、何度も這い上がろうとしては、落ちての繰り返した事がありました。これでもか!と。落ちるところまで落ちたのだから・・もう落ちないじゃん!這い上がろう!!と思考を変えてみました。考えを転換すると、いろいろな事が見えてきたのです。夢、希望、願いは捨てない限り逃げては行かないと思いました。

物事には必ず原因があり、結果があります。そして、原因が変化すれば結果もかわるのです。人生は、いくらでも変化できるのです。

仏教の教えの大原則、四法印と言うことばにもある通り・・

諸行無常「しょぎょうむじょう」(この世の物事はすべて変化している)
諸法無我「しょほうむが」(この世のものごとはすべてつながっている)
一切皆苦「いっさいかいく」(この世のものごとはすべて思い通りにならない)
涅槃寂静「ねはんじゃくじょう」(煩悩の消えたさとりの世界は静かで安らぎの境地である)

お釈迦さまも、人生思うようにはいかない・・とおっしゃっています。

父がいて母がいなければ、私たちはここにいません。たくさんの”命”のつながりがあり活(生)かされているのです。誰かがあなたを必要として、私も誰かを必要として生きているのです。この世に無駄な命などは一切ないのです。

本当の仕合せ。毎日訪れる平凡なこの毎日こそが・・私は仕合せと思っています。
御飯が食べられ、雨風しのげる家があり、綺麗な洋服を着る事ができるなど、目の前に仕合せがあることに気づかず・・仕合せじゃないな・・・と思ってしまいます。思考を変えれば見えない何かが見えてきます。

焦らすに人生と言う冒険旅行を楽しんでみませんか?

辛かったり、苦しくなった時はいつでもここに来てください。

あなたらしく仕合せに人生が歩めますように。

合掌

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有り難し
おきもち

皆様、初めまして。ストレスの多い現代・・お寺とはご葬儀や法事のみではなく、悩みを相談し気軽に参拝出来る”心のよりどころ”であって欲しい・・・その願いを叶えさせて頂きました。仏縁を頂き真言宗の小さな手作りのお寺を開山させて頂き4ヶ月が過ぎました。妻を脳腫瘍で看取り、東日本大震災で彼女を失い、父を心筋梗塞で看取り、障がいのある長男と健常児の次男を育てる父子家庭の父、押し寄せるこれでもか!と来る障害。・・どうにかなるさ!と思考を変え、今日に至っております。一切衆生をお救いする事、それは経験させて頂いた出来事があるからこそ、その痛みがわかるからできるのことです。迷わず、負けずぶれず道一筋に、あなたの希望ある光輝く人生を楽しめますように。濃霧も時がたてば天晴の如く見通しが良くなるように人生の羅針盤となり皆様に寄り添い、慈悲の回向の光を届けさせて頂きます。 開かれたお寺と志を忘れないよう挑み続けます。合掌 礼拝

わがこととしてやってみる

私は他人のことをやるのもわたしのこととしてやっています。
今朝、ニワトリにエサをやりました。昨日は鶏🐓の小屋を作りました。
自分のこととしてやっています。
ワイフや子供の洗い物もします。妻はそれ以上のことをしてくださっています。どっちがどっちとかどっちの方が多くやっているとかではなく、自分のこととしてやっているのです。丁寧に言うと、今この記事を書いているのも私の活動です。この身と心と言いましょうか。うーん、ただ手が動いているだけで、あなたのためにとか私の為にということ無しにやっています。
何であたしばっかり…とか、思いの中でものを眺めると皿洗い一つもバカバカしくなります。
お子さんのことやご主人のことで色々大変とは思いますが、こう考えてみましょう。
子供たちは子供たちの自分を生きている。
旦那は旦那の持ち回りの自分を生きている。
私も私の自分をやっている。
人生は他人事でも自分のことしかやっていない。
テレビで芸能人がどうしたこうしたというのも、私がそれを見た聞いた。やれ、騒ぐ人は騒げばいい。相手にせんでもいいことは相手にせんでいい。
人生は、この身心というディスプレイに映し出されることしか「感じ」られません。
もっと言えば何をどう思うかによって世界観も感じ方も幸せ感も変わります。
幸せを破壊する行為は身心に映し出されたことを自分流に破壊することです。
たとえば天気一つ、ニュース一つ、車の運転一つ、食事一つ、みんなある種世界中の人が本当の意味で体感の上においてだけは平等なのです。
そりゃぁ食べるものの違いこそあれども、食事をするということは味覚が生じるということ。その時点においては平等なのです。ニュースを聞く。観る。皿を洗う。誰の上においてもそれは平等に行われるのです。ここで言う平等の意味を良く読み取ってみてください。お子さんはお子さんの人生を今日は今日でまっとう。あなたはあなたの観ているテレビや仕事や食事を授かって経の生活を全う。
私も私で何をやっても良い。今はこうして回答しています。
人生は自分の体一つの上に現われる体感ディスプレイの映し出され鹿ありません。
その映し出されたことに口やかましい映画監督や評論家のような視線であれこれいちゃもんをつけると苦しいことが生じます。
今あなたはあなたの呼吸や咳をしている。あなたにたまには向き合ってみてはいかがでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました

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