疲れた、死にたいです
初めて質問させていただきます。
家事、仕事にと自分の時間など取れない位に忙しく、疲れ果てました。
疲れていつも不機嫌な私を見て、家族は皆呆れています。
唯一の楽しみはお酒を飲む事でしたが
日に日に量は増え、飲んで荒れるので、アル中だと思います。
こんな自分が情けないし、生きていても家族に害だと思うようになりました。
どうすればいいのですか?
死んだら全て終わりなのはわかっています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人生はいくらでもかえることができると思います。
初めまして、こんにちは。
ひとみさんはきっと頑張りすぎて、心のエネルギーが空っぽのままそれでも頑張らなきゃ・・と言う状態になっているのではないでしょうか・・?
此岸(この世)は苦しいことや辛いことが沢山ありますが、その難儀する出来事や現状はいつか必ず変わるのです。私自身も、様々な試練が次々と現れては、落ちるところまで落ち・・何度も、何度も這い上がろうとしては、落ちての繰り返した事がありました。これでもか!と。落ちるところまで落ちたのだから・・もう落ちないじゃん!這い上がろう!!と思考を変えてみました。考えを転換すると、いろいろな事が見えてきたのです。夢、希望、願いは捨てない限り逃げては行かないと思いました。
物事には必ず原因があり、結果があります。そして、原因が変化すれば結果もかわるのです。人生は、いくらでも変化できるのです。
仏教の教えの大原則、四法印と言うことばにもある通り・・
諸行無常「しょぎょうむじょう」(この世の物事はすべて変化している)
諸法無我「しょほうむが」(この世のものごとはすべてつながっている)
一切皆苦「いっさいかいく」(この世のものごとはすべて思い通りにならない)
涅槃寂静「ねはんじゃくじょう」(煩悩の消えたさとりの世界は静かで安らぎの境地である)
お釈迦さまも、人生思うようにはいかない・・とおっしゃっています。
父がいて母がいなければ、私たちはここにいません。たくさんの”命”のつながりがあり活(生)かされているのです。誰かがあなたを必要として、私も誰かを必要として生きているのです。この世に無駄な命などは一切ないのです。
本当の仕合せ。毎日訪れる平凡なこの毎日こそが・・私は仕合せと思っています。
御飯が食べられ、雨風しのげる家があり、綺麗な洋服を着る事ができるなど、目の前に仕合せがあることに気づかず・・仕合せじゃないな・・・と思ってしまいます。思考を変えれば見えない何かが見えてきます。
焦らすに人生と言う冒険旅行を楽しんでみませんか?
辛かったり、苦しくなった時はいつでもここに来てください。
あなたらしく仕合せに人生が歩めますように。
合掌
わがこととしてやってみる
私は他人のことをやるのもわたしのこととしてやっています。
今朝、ニワトリにエサをやりました。昨日は鶏🐓の小屋を作りました。
自分のこととしてやっています。
ワイフや子供の洗い物もします。妻はそれ以上のことをしてくださっています。どっちがどっちとかどっちの方が多くやっているとかではなく、自分のこととしてやっているのです。丁寧に言うと、今この記事を書いているのも私の活動です。この身と心と言いましょうか。うーん、ただ手が動いているだけで、あなたのためにとか私の為にということ無しにやっています。
何であたしばっかり…とか、思いの中でものを眺めると皿洗い一つもバカバカしくなります。
お子さんのことやご主人のことで色々大変とは思いますが、こう考えてみましょう。
子供たちは子供たちの自分を生きている。
旦那は旦那の持ち回りの自分を生きている。
私も私の自分をやっている。
人生は他人事でも自分のことしかやっていない。
テレビで芸能人がどうしたこうしたというのも、私がそれを見た聞いた。やれ、騒ぐ人は騒げばいい。相手にせんでもいいことは相手にせんでいい。
人生は、この身心というディスプレイに映し出されることしか「感じ」られません。
もっと言えば何をどう思うかによって世界観も感じ方も幸せ感も変わります。
幸せを破壊する行為は身心に映し出されたことを自分流に破壊することです。
たとえば天気一つ、ニュース一つ、車の運転一つ、食事一つ、みんなある種世界中の人が本当の意味で体感の上においてだけは平等なのです。
そりゃぁ食べるものの違いこそあれども、食事をするということは味覚が生じるということ。その時点においては平等なのです。ニュースを聞く。観る。皿を洗う。誰の上においてもそれは平等に行われるのです。ここで言う平等の意味を良く読み取ってみてください。お子さんはお子さんの人生を今日は今日でまっとう。あなたはあなたの観ているテレビや仕事や食事を授かって経の生活を全う。
私も私で何をやっても良い。今はこうして回答しています。
人生は自分の体一つの上に現われる体感ディスプレイの映し出され鹿ありません。
その映し出されたことに口やかましい映画監督や評論家のような視線であれこれいちゃもんをつけると苦しいことが生じます。
今あなたはあなたの呼吸や咳をしている。あなたにたまには向き合ってみてはいかがでしょう。
質問者からのお礼
ありがとうございました