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仏像の一部が壊れました

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こんにちは
オークションで購入した新品の地蔵王菩薩さんの仏像が三回ほど触っただけなのに座っている蓮華の部分が一部剥がれてしまいました。
すぐ接着剤でくっつけたのですが
接着剤で仏像が少し汚れてしまいました。
このような仏像でも開眼して構わないでしょうか?
あと本来落札予定だったもう一つの江戸時代に作られた地蔵菩薩を諦めたところで起きた出来事でした。
何かから守ってくださったと考えるべきでしょうか?
そのような仏像を開眼しても大丈夫でしょうか?
ちなみに地蔵王菩薩さんの真言は普通の地蔵菩薩さんと同じ真言でしょうか?
教えてください


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏像を「モノ」とするか「ご本尊」とするか

ご相談拝読しました。

仏像が壊れてしまったのはショックでしたね。お気持ちお察しします。

しかし仏教は偶像崇拝の教えではありません。開眼法要をしようがしまいが仏像は仏像、ただの「モノ」です。

でもその「モノ」を象徴としてあなた自身が真実に目を覚ますならその「モノ」はただの「モノ」でなく「ご本尊」となります。

「ご本尊」はお願いをするものではありません。ご本尊にお願い事をするのならそれは「ご本尊(もっとも尊いもの)」でなく「自分の願い(思い)」を中心にしているのです。自分の思いを中心にする在り方はどこまでいっても迷いです。それに振り回されるのが人間なのですから。

だから「ご本尊」の仏様としての願いを私たちの方が聞く事が仏教の学びです。

仏様の守護とは自分の都合の良い事を起してくれたり、都合の悪い事から避けてくれたりすることではありません。都合の良い悪いは結局自分の思いのモノサシです。
そこに振り回されてることに気がつかせ、どんな出来事にも都合の良し悪しをこえて向き合っていく力をいただくことが仏様からの守護なのです。

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個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

決して失われることのないお地蔵さんがここにありますが。

仏像のお地蔵さんは仏像の数だけ存在します。
六道は人間の数だけ存在ます。
自分の心の六道を救ってくださる地蔵の働きは自分で求めれば必ずそれが本尊の働きになりましょう。
本尊様とは仏像、木仏、金仏、仏画に求めるべきものでしょうか。
私のおすすめは外に地蔵を求めず、自身のうちにお地蔵さんなる救いの働きを見出すことです。
もちろん、本尊様としておまつりしたい仏像が壊れてしまったことはショックだったでしょうが、物質はいずれカタチが変ってゆくもの。
そういう喪失感や損ないの心を人間界というのです。
地蔵とはそういう失い、がっかり感、損ない感を救ってくださる働きです。
仏心の象徴とでもいいましょうか。
そういう地蔵さんを自身の内におまつりして、手を合わせられるようになると地蔵レベル黒帯です。
こういう話は響く人と響かない人がいますので、響いた人はお寺まで。
あらゆる仏像は自己の内のある何かを象徴しているのです。
木仏、金仏としての仏像を本尊となさることも良いこと、良い功徳です。
ですが、その仏像が欠けた、失われた、…損なわれた…、
そこにメッセージがあるのですよ。
そういう心をより良い心へ導いてくれるのが地蔵菩薩の願行であり、仏教の説く菩提心であり、救いの心です。
ぜひ、そういう所もいずれ明らかにしてみようと志してみてください。
決して失われることのない本当のお地蔵さん、本物のお地蔵さんに出会うことができるでしょう。
見える人には見えるものです。
見えるというより、感じ取れる人には感じ取れるものです。
そういうものを後からあらわしたものがお地蔵さんの仏像ですから、その仏像の本尊様も本当は「そっち」なのです。
「そっち」が先にあるのであって、仏像は「そっち」の本尊さんの影のようなものです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。そうですね。振り回されてはいけませんね。仏様の守護に感謝し、いきていきたいとおもいます

丹下様回答ありがとうございます。とても心に響きました。ありがとうございます。何か意味があって壊れたのかもしれませんね。あくまで本来の地蔵菩薩さんをかたどったのが仏像。なんだか安心しました。
この度は本当にありがとうございました!

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