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仏像の一部が壊れました

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有り難し有り難し 19

こんにちは
オークションで購入した新品の地蔵王菩薩さんの仏像が三回ほど触っただけなのに座っている蓮華の部分が一部剥がれてしまいました。
すぐ接着剤でくっつけたのですが
接着剤で仏像が少し汚れてしまいました。
このような仏像でも開眼して構わないでしょうか?
あと本来落札予定だったもう一つの江戸時代に作られた地蔵菩薩を諦めたところで起きた出来事でした。
何かから守ってくださったと考えるべきでしょうか?
そのような仏像を開眼しても大丈夫でしょうか?
ちなみに地蔵王菩薩さんの真言は普通の地蔵菩薩さんと同じ真言でしょうか?
教えてください


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏像を「モノ」とするか「ご本尊」とするか

ご相談拝読しました。

仏像が壊れてしまったのはショックでしたね。お気持ちお察しします。

しかし仏教は偶像崇拝の教えではありません。開眼法要をしようがしまいが仏像は仏像、ただの「モノ」です。

でもその「モノ」を象徴としてあなた自身が真実に目を覚ますならその「モノ」はただの「モノ」でなく「ご本尊」となります。

「ご本尊」はお願いをするものではありません。ご本尊にお願い事をするのならそれは「ご本尊(もっとも尊いもの)」でなく「自分の願い(思い)」を中心にしているのです。自分の思いを中心にする在り方はどこまでいっても迷いです。それに振り回されるのが人間なのですから。

だから「ご本尊」の仏様としての願いを私たちの方が聞く事が仏教の学びです。

仏様の守護とは自分の都合の良い事を起してくれたり、都合の悪い事から避けてくれたりすることではありません。都合の良い悪いは結局自分の思いのモノサシです。
そこに振り回されてることに気がつかせ、どんな出来事にも都合の良し悪しをこえて向き合っていく力をいただくことが仏様からの守護なのです。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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決して失われることのないお地蔵さんがここにありますが。

仏像のお地蔵さんは仏像の数だけ存在します。
六道は人間の数だけ存在ます。
自分の心の六道を救ってくださる地蔵の働きは自分で求めれば必ずそれが本尊の働きになりましょう。
本尊様とは仏像、木仏、金仏、仏画に求めるべきものでしょうか。
私のおすすめは外に地蔵を求めず、自身のうちにお地蔵さんなる救いの働きを見出すことです。
もちろん、本尊様としておまつりしたい仏像が壊れてしまったことはショックだったでしょうが、物質はいずれカタチが変ってゆくもの。
そういう喪失感や損ないの心を人間界というのです。
地蔵とはそういう失い、がっかり感、損ない感を救ってくださる働きです。
仏心の象徴とでもいいましょうか。
そういう地蔵さんを自身の内におまつりして、手を合わせられるようになると地蔵レベル黒帯です。
こういう話は響く人と響かない人がいますので、響いた人はお寺まで。
あらゆる仏像は自己の内のある何かを象徴しているのです。
木仏、金仏としての仏像を本尊となさることも良いこと、良い功徳です。
ですが、その仏像が欠けた、失われた、…損なわれた…、
そこにメッセージがあるのですよ。
そういう心をより良い心へ導いてくれるのが地蔵菩薩の願行であり、仏教の説く菩提心であり、救いの心です。
ぜひ、そういう所もいずれ明らかにしてみようと志してみてください。
決して失われることのない本当のお地蔵さん、本物のお地蔵さんに出会うことができるでしょう。
見える人には見えるものです。
見えるというより、感じ取れる人には感じ取れるものです。
そういうものを後からあらわしたものがお地蔵さんの仏像ですから、その仏像の本尊様も本当は「そっち」なのです。
「そっち」が先にあるのであって、仏像は「そっち」の本尊さんの影のようなものです。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

ありがとうございます。そうですね。振り回されてはいけませんね。仏様の守護に感謝し、いきていきたいとおもいます

丹下様回答ありがとうございます。とても心に響きました。ありがとうございます。何か意味があって壊れたのかもしれませんね。あくまで本来の地蔵菩薩さんをかたどったのが仏像。なんだか安心しました。
この度は本当にありがとうございました!

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ