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恋愛への向き合い方

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有り難し有り難し 8

先日のクリスマスに生まれて初めて告白をしました。相手はサークルの後輩です。

告白の返事は一旦保留。2日後に遠回しに断られました。告白した時の様子を思うと当然の結果です。

相手の子は以前僕に好意を持ってくれていた子でした。しかし僕は当時他の子に好意があり、その子の事は正直気にしていませんでした。

結局、好意のあった子には靡かれることなく終わり、むしろ嫌われ、呆然とした時間を暫く過ごし、次の恋に邁進してみようと思い至りました。

そして次に好意を抱いたのが先日告白をした子でした。以前から好意を寄せてくれていたと前述しましたが、これがかなりあからさまに好意を寄せられていたのです。

「好意を寄せてくれていたのだから大丈夫だ。今度こそ彼女が出来るぞ」という気持ちがあったのは確かです。寧ろ今思えばその気持ちが殆どだったのでしょう。未だに彼女が出来た事のない事実に焦り、加えてクリスマスに何の予定もない事に焦り、同じ境遇にあった友人に彼女が出来た事に焦り…焦り三昧の自分に焦り、何か行動を起こさねばと意を決してその子に告白をしました。そして断られました。

ここからが本題であります。彼女がいた事はありませんが、全くモテない訳でもないのです。これまでにも僕に対して好意を抱いてくれた人は何人かいますし、今も同サークルの子からアプローチを受けています。

ただ僕が好きになった異性からは決して好かれないのです。例え僕の事を好きだった子でもです。

幾ら彼女が欲しいからと言って好意も無しに告白しても、それはただ自分のエゴに付き合わせるだけだしな、という分不相応な悩みを抱いております。

告白を断った子からの返事に対しては、こちらも誠意を持って対応しました。しかし一か月くらいしたらまたご飯でも誘ってみようかな、などと考えている始末です。

この様に恋愛に対して完全に迷走しております。面白い程歯車が噛み合わないような感じがずっとしています。難が有るということは有り難いことだと割り切っている自分も半分いますが、もう半分は本当にこんな恋心の抱き方で良いのだろうか、思い返せば他人様の気を害してばかりの人生だったのではないかとも思っています。

この様な不可解かつ不愉快な自分に不安と憤りを感じて質問をさせていただきました。この迷走が自分の糧になると割り切って生きていっても良いものでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

なんか周りが恋愛してるから恋愛してみよう的な

クリスマスシーズンってなんだかメンドクチャいですよね。
そのノリにこちらが合わせて盛り上がらないといけないかのような。
ハロウィンあたりでも違和感を感じましたが。
綺麗な電飾は綺麗は綺麗ですが、いつも人間は本質の脳みそを忘れているのです。
本当に脳みそさんが満足するには勢いで恋をしたり、勝った負けた優劣善悪の駆け引きよりも、本当に安心できる人と一緒にHOMEを持つことなのでしょうね。
本当に好きになる人とはおのずからイイ感じになっていくように人間って「つくられている」ものなのです。その証拠に、いくら人気のあるアイドルだからってタイプじゃなければうんともすんとも言わんもんでしょう。むしろ、何が?どこが?いいのかもワカランのです。教わったわけでなしにそうなっている。
だから、恋も愛も時期的なものというより、本当にそういう相手に出会えると王子さまとお姫様のような、オン鳥とメン鳥のような、いや、月9のような、韓流恋愛ドラマのような、いや、それ以上のアツい情熱でイノシシの如くに突き進んでいくのでこんなサイトを相手にしているどころではありません。(笑)
後になって気づくのが現実と理想との温度差とか、思い違いだったりとか…、まぁ、責任はちゃんと持ちましょう。
恋をするより、家庭愛的であることの方が大事です。
恋は割と自己中心的。相手のペースを考えてなかったり、自分のセルフ妄想が主役だったりする厄介な妖怪みたいなものです。
愛は何と言いましょうか、全自動なのです。
相手にフラれようが相手の幸せを祈れるものであったり、感謝ができるようなものであったりするもので。
それは自身の人間性によって培われるものなのだと思います。
愛するというエネルギーがそもそもエゴを克服した人間性から生ずる姿勢であるということを見抜かなければいけません。
たとえば、教師が体罰をする。
体罰をしても導く先があればそれは体罰のようでもその生徒のエゴを奪うための導きであったりするものです。ただ殴るだけでは体罰かもしれません。ですが、人としてもっと大切なのは、その人の我やエゴがそのまま増殖するよりも鎮火させて自他への害悪を抑えることの方が大事である場合もあるのです。
恋愛をするというのは何をするのでしょう。
何処へ導かれるべきものでしょう。
そこに愛があるかどうか。
そこに導き先があるかどうか。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答していただき誠にありがとうございます。

結局彼女からははっきりとお断りの返事をいただきました。

しかし今回のご回答で人を愛するという事ではなく、唯彼女を作るという事が目的になっている自分のエゴにまみれた現状を俯瞰する事が出来ました。

彼女を作るという表層的な部分にのみ執着するのではなく、その先にある何か(まだ僕には曖昧にしか理解できませんが)を目指して日々の生活を営んでいこうと思います。

ありがとうございました。

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