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自分の意識から逃げたい

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有り難し有り難し 5

死にたくないけれど、自分という意識を消し去りたいです。
 
私は命は自分のものではないと思っていて、だからこそ大切にしなくてはいけないと思っています。
私を虐待し続けた両親を、それでも私を愛してくれていたことはよく知っているから愛しています。
だから私は二人がくれた命、二人が大枚をはたいて育んでくれた命を捨てるのは、他人の高級車を身勝手に壊すようなものだと思っています。
虐待されていた頃から希死観念は持っていました。
でも上記の理由で両親を恨めず苦しみながらも今日の日まで生きてきました。
すべて二人のおかげだと思っています。
 
 二人から離れ、かつての傷も癒えて来たと思っているこの頃、それでも希死観念が消えないので、これが本当に「死にたい」という意志なのか、書き出していって分析をしようと試みました。
 
 すると私の「死にたい」は、「思考を続ける自分という意識から逃げたい」のだと気づきました。
 
私の命は私のものではありません。粗末に扱ってはいけない貴重なものです。
しかし、私は私の思考、意識、いわば私というものがとても嫌いで、怖くて、逃げたいのです。
自分と一生付き合っていくのは自分ですが、その自分の脳髄から逃げたいのです。
自分というやつがこの世に存在しているのが我慢ならないのです。
これは罪悪感ではなく身勝手な怒りです。
しかしこいつから離れるには脳死するしかなく、それでは両親の投資が無に帰してしまいます。
しかも国立大で勉強を続けているので、国民の税金を無駄にすることにもなってしまいます。
なのでどう考えればこいつと向き合っていけるのか、その心構えを教えていただきたいのです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

『明らかにせよ』。

日記を書いてみてはいかがですか?

『自分』というものについて悩むところがある。
苦しく感じるものがある。違和感を感じる。
もしくは訳の分からないもやもやを抱えている。

そういったときに大事なのは
とことん自分自身と向き合うことだと思います。

何度か
「他人からお前はどうして自分のことばかりで悩んでいるのと指摘されてつらい」
と相談を受けたことがあります。
そのときに一番危ないのはその指摘を真に受けて
外のことばかり目を向けようとすることだと思いました。

自分自身の現実から目を背けるために外へ外へ関心を持とうとする。
関心を持つ対象をつくろうとする。
当然ながらそれは依存症をつくりだします。

自分が何かに依存してしまっているとき
それは自分自身から逃げるために依存しているのですから。

仏教では
「見た目の美しさ、音楽、香り、味わい、肌触り、考え方」
それらすべて依存の対象になりうると説き、
そのとき苦しみが生まれるのだと説いています。
自分を明らかにしていない【無明(むみょう)】から
訳もなく苦しいのだと。

言われてみれば確かに
逃げるために対象を貪る人と
対象そのものを心ゆくまで味わえる人とでは
人生の楽しみ方がまるで違うと
私は感じています。

両者の違いは
いかに自分自身と向き合えてきたかにかかっていると
私は思うのです。

楽しいこともあるはずの人生、
なぜ仏教は「生きることは苦だ」と説くのか。
それは「自分自身を明らかにせよ」という教誨なのだと思います。

明らかにする方法はいくつかあると思いますが
一番とっかかりやすいのは『日記』だと思います。

日々過ごしてみて思ったこと。おいしそうだと思ったら食べてみること。
朝日を浴びて思ったこと。ズル休みをして気がついたこと。
等々、日常のありきたりを
毎日でなくてもいいから月1回でもいいから
その都度日記にしてみるとよいと思います。
詩(うた)もいいですね。

どんな小さなことでも「生産」してみることが
そしてその都度、振り返ってみることが

自分自身と向き合ってゆける一番の道だと思います。

張り切りすぎず、たまには自分から逃げてもいい、
そのうちストンと落ちて
気持ちがふっと楽になるはずですよ。

                      南無釈迦牟尼仏 合掌

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有り難し
おきもち

吉井浩文
Buddhism. knowing what it actually i...
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質問者からのお礼

吉井浩文様
回答をありがとうございます。
「自分から目をそむけたいから外へ関心を持とうとする」という言葉がとてもストンと落ちました。
孤独だと感じ続けて、大学や部活の休みが長期に渡って続くことを厭うていました。それは自分という存在から目をそむけて、他者・外へ関心という麻薬で自分に向く自分の目を麻痺一時的にでも麻痺させたかったからなのだと前から思っていたのですが、やはりそういうものだったのですね。
真摯に教えてくださってありがとうございます。
好きな人に私が嫌っている「私」という意識を見られるのが怖くて、自分からの好意を表明し続けつつも相手の好意を否定し続けてしまったことから、昨日喧嘩になってしまいました。
これはいつか別のお坊様がおっしゃっていた三毒の愚痴を相手に浴びせたからであり、反省中です。
 
その根にはこの相談内容の通り、自己からの逃避があったからだと思いました。
一人暮らしでテレビもない一人部屋で、この三が日、逃げずに自分を見ようと思います。

これからお忙しくなるとは思いますが、良いお年を。ありがとうございました。

「本当の自分と向き合う・らしさを取り戻す」問答一覧

学びは身になっているのか、実感がない

お世話になっております。 人生を通してなのですが、学びたいことに対して、特に実務系より精神面、自己啓発の観点の方で、それが消化されて自分のものになっている感じがあまり得られずに悩んでいます。 いろいろ講演会を聞いたり、本を読んだり、ネットで共感したことなどをもっと自分の生活や思想に取り込みたい、深く学びたいと思っても、なかなか深化できないです。自然に出て来ないし、学びも進みづらい。 仏教とかも元々文系教科(特に古文・漢文)が苦手だったので、本を読むにも頭に入って行きづらいときがあります。他のものにしても最近はうつ病とかもあって、昔より文章から要旨を掴むのが下手になってしまいました。 そもそも話題の本、タイトルから自分の欲した答えやスキルが得られそうな本、好きな著者の書いた本、何らかの形で薦められた本、やってみたいことが出来たが勉強しようと思ったら芋づる式に出てくる関連著書、あるいは興味が別なことへ移ってそちらの本・・・すべてに取り掛かることもできず、積ん読として無駄になることもしばしばです。 本もかみ砕いて熟読するにも時間がかかるし、でも速読したら結局自分の読みたいようにしか読めてなくて、本当に著者の思いを汲み取れているのかわからなくなります。 さらに、たまに振り返ったりしないととても浸透しないしすぐ忘れてしまうのですが、それも量が増える。多くのものに触れようとしなければいいものには出会えないけど、じっくりかみ砕くことを怠ると簡単にその知識は腐る、そのジレンマに悩んでいます。 最近はインプットや振り返りのために時間を取るのも下手になった感じがありますが、折角そうしてもスマホや別の事務仕事に時間を取られて、予定は常に狂うしやる気も保ちづらい。じゃあやめれば?と予定変更しても後悔が残ってすっきりしない状態です。 お坊さんは毎日のおつとめの中で大事なことを振り返っていると思うのですが、当然新しいインプットだってしているはずだと思うのです。 学んだことを血肉にするためにどういう事をしていけばいいのか。 いろいろ興味を惹かれることが多い中、何か学びを絞るためのポイントはあるのか。 新しいことを身に付ける中で、新しいものを取り入れつつ以前のものを腐らせないためにはどうすればいいのか。 アドバイス等ございましたらご教授いただけますと幸いです。

有り難し有り難し 4
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納得のできる生き方をしたい

私は何に対しても不安になってしまいます。 目には見えない病気なので家族や友人にもあまり理解がされず「もっと頑張らなきゃ!」「家にずっと居ると暇でしょ?」「私だって肘が痛いけれど仕事を頑張っている」など言われてしまいます。 たしかに家族や周りから言われるように私は甘えているだけなのかもしれません。 周りの人達は悩みを抱えながらも体調が悪くても一生懸命、仕事をしたり生きているのに私は人生をなめているというか一生懸命過ごせている気がしていないので、周りからも避けられているように感じてしまいます。 働かないだらしない人とは関わりたくない、ネガティヴな発言しかできない人とは関わりたくないなどと思われているのではないかと常に不安です。 連絡も相手から来ることはないので、私から送るのですが連絡をするにも迷惑だと思われているのではないか、友人と食事に行っても私と一緒に過ごして楽しいと思ってくれているのかな、もう会いたくないと思われているのではないかと相手の顔色ばかりを気にしています。 現在していることは浴槽を洗ったりはしているのですが家族や周りから見たら、そんなことは当たり前で何も偉くはなく、頑張った内にも入らないというような言葉を言われたり、心配して貰いたい、ありのままを伝えたら嫌われてしまう考えだけで嘘をつく癖が治らないなども含めて生きていることが怖いです。最近は今の人生を一生懸命生きようとかではなくて亡くなった後のことばかりを考えてしまいます。自分ことは自分しか分からないから周りの言葉など気にしなくてもいいと思うときもあるのですが、どうしても周りの目や評価が気になってしまいます。少しでも生きていてよかった。仏教の目的の「私が私らしく」「自分を愛おしく」思えるような生き方や考え方を教えてください。

有り難し有り難し 8
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なんか成長した

昔の私は嫌なことにこだわって嫌なことをふくらませて自分をいじめてました。 高校のとき、家庭科の先生から 空を見上げてごらん!自分の悩みなんてちっぽけに思えるよー! とアドバイスをもらっても 国語の先生から どんなに自分が悪くても明日はやってくる。寝て忘れるんだ! とアドバイスをもらっても 意味わからんし(`Δ´) でした。 そして、ネットで、モヤモヤしたら お掃除しなさい。 お風呂に入りなさい。 などと書いてあっても モヤモヤ、イライラとまらんわ(`Δ´) でした。 どうして、いろんな方からのアドバイスが受け入れられたかというと、子供の存在でした。 歯磨きせん!って言われて、押問答してて、イライラするけど、可愛い言葉や仕草をされるとなんかそれに癒されて、どうでもよくなってなんか笑顔になります。そして、悩みをほぼほぼ忘れます。 あぁーこういうことなんだなってわかりました。 私は人のせいにして生きるのが大好きでした。 人の幸せを見るのが辛くて、買い物以外は外に出ませんでした。 そしたらぶくぶく太り、軽度肥満になりかけました。 人のせいにした人たちが、私を守ってくれるの?私の健康を守ってくれるの? そう気づき、3年で10キロ痩せました。 BMI適正体重になりました。 ゆっくり痩せたのでリバウンドなしです。 去年の健康診断でさえ、お医者さんからも保健師さんからも褒められました。 今年の健康診断もさらにお医者さんからも保健師さんからも褒められるー(^ω^) これからもたくさん成長します。

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自分らしく生きるとはどうすればいいか

はじめまして よろしくお願いします。 私は、人からの評価が気になる、人にどう思われたか気になる、人の気持ちを読んでできる限り尽くす、ほめられたり好かれると非常に嬉しくすぐにその相手を大好きだと思い、逆に批判されたり否定されたらとても気になり腹が立ったり恨んだり・・・というところがあります。 これまで職場のような浅めの関係性の場所で最後必ず辛くなり、何年も我慢した挙句パッと人間関係を切ってしまうことが多いです。お世話になって感謝する反面、本当の私を分かってくれない、裏切られたと思ったりしてしまいます。私自身は職場でも人の本質を見て付き合おうとしてしまいがちです。 心から相手と理解しあいたいと思う気持ちがあります。障害のある子どもに関わる仕事をしていますが、障害ではなくその人自身を見ることが得意です。 他者評価を求めている、承認欲求が強いのかとも思いますが、ただ、私は、ずっと自分のことは好きなのです。努力できますし、人に優しいですし、感性も豊かです。 母がいつも褒めてくれましたし、好きでいてくれました。 ただ母が極端に心配性で、人からいい母親と見られようとしていた弱さはある人でした。(私が30代の頃亡くなりました。)いい子の私はいつも母を喜ばせようと努力してきました。その影響はあると思います。ただ、愛情をもらって自分に自信も持てるように育ててもらっています。 なのに、なぜ、いつまでも精神的に自立できず、人に好かれたいのでしょうか。 自覚はないのですが、私は、自己肯定感が低いのでしょうか? どうすれば精神的に自立して自由に清々しく生きられますか。

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自分との向き合い方、親との接し方

小さい頃からメンタル面が弱いです。 今でも、成人男性や酔っ払っている人が非常に怖かったり、自分に自信がとにかく持てず、私自身のことを褒められてもしっくりきません。 丁寧に説明されると嬉しいことには嬉しいのですが、心の隅では「過剰評価だ」と感じてしまいます。 それらについてネットを中心に調べてみたところ、親からの影響だとか、愛情不足だとか、幼い頃に褒められてないだとか……そういった言葉が様々な場所で「あなたは悪くありません」と一緒に、頻繁に書かれていました。 確かに、親に褒められたことを思い出そうとしても出てきませんし、抱きしめられたり頭を撫でてもらったことも思い出せません。 けれど、10代の頃こそ親に愛されていないと思い込んでいましたが、今現在では「あれが両親の言うところの愛情だったのかもしれない」と思い当たる出来事も数個あります。 思っていたように育児がうまくいかず親も苦しかったのだろう、と、親へある程度の共感や理解もできるようになりました。 一方、考えれば考えるほど、どうしてあんなことができたのかなぁと不思議に思ってしまいます。 向こうが「愛情だ」と言っていても、私からすれば苦痛でしかありませんでした。 それでも、きっと両親は嘘をついていなくて、本気で私と弟を愛しているのだと思います。 頭では「愛されていた」とわかっていますが、完全に割り切れているわけではありません。 親に裏切られたこと、傷つけられたこと。それらを忘れることもできなければ、許すこともできそうにありません。かといって、縁を切るほど憎みきれているわけでもありません。 本題に戻りますが、 私の持っているトラウマや自己肯定感の低さ、希死念慮、そういったものを全部親のせいにしても良いのでしょうか。 みんなの言う通り、私の努力不足や能力不足だったり私が怠けているだけではないのでしょうか。 また、愛憎半ばな親にはどう接すれば心身穏やかに暮らすことができるでしょうか。 実家から出るメリットが「親と離れられる」しか思いつかず、且つそれが(少なくとも今は)特別大きなメリットでもないため、心構えなどを中心にお言葉をいただけるとありがたいです。

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自分自身と向き合う

いつも大変お世話になっております。 ハスノハは私の心のささえです。 今回ご相談させていただきたいのは「自分自身と向き合う」ということです。 お恥ずかしながら私は、いい年なのに精神的にとても未熟で、子供の頃から大人になるまで本当に様々な罪を重ねてきました。 二十代前半までは人にしてきた事よりされてきたことへの苦しみ、三十路の今はされた事よりしてきた事への後悔で毎日苦しんでいます。 こんな私のことを大切に想ってくれる人を裏切り、私利私欲の為に利用したり、自分がされて嫌なことをしてしまったり。 自分の欲望を抑えられず、後先考えず衝動で動き、無知さで大きな過ちをしたり。煩悩の塊です。 あの頃は、ただひたすら目の前にあることしか考えられなかったのだろうと、今は思います。 過去は幻、未来は妄想、過去に執着して今を放棄するのはとても愚かだなと頭ではわかっていますが「あぁ、なんであんなことをしてしまったんだ」と過去の自分を恨んでしまいます。 そんな過去の自分や今の自分としっかり向き合い、これから清く正しく生きていきたいです。変わりたいです。 しかし、今まで見て見ぬふりをしていた気持ちや過去と向き合うということが、こんなに苦しく大変なのかと悩んでいます。 自分自身と向き合い変わっていくためのアドバイスをいただきたいです。 まとまりのない文章で申し訳ありません。よろしくお願いします。 (以前、別のご相談させていただいたときに教えていただいた懺悔は今後も続けていきます)

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自分らしく生きたいけど怖くて不安です

私の母は専業主婦で、今まで私にたくさん時間をかけてくれました。しかし、かけ過ぎて私自身がどうしたいのかが今までよく分からないまま過ごしてきました。 母は強要はして来ないけれど、気付いたら母が敷いたレールの上にいたような感じです。高校は母が見つけた高校に通っており(自分でもきちんと気に入った高校ですが)、母が推す就職に強い地元の大学、福利厚生が手厚い大企業に入り、結婚相手を見つけ、子供を産むという人生にこのままだとなりそうです。 今までは私もその人生を望んでいるつもりでしたが、最近、老後の資金のためにお金に関する本を読み始めたところ、私は母の考え方に流されすぎているのではないかと気づき、自分が本当にやりたいことを考えてみました。 私は地図を眺めることや旅行計画を立てることが大好きなので、そのようなことを仕事にしたいし、結婚はそこまでしたいとは思いません。まだ自分のやりたいことがしっかりとまとまっていないのですが、少なくとも母の思い描く人生をそのまま生きるのは嫌だなと思うようになりました。 しかし、今まで私は世の中の一般的な親子よりも長時間母と過ごしてきたので母が思い描く人生から外れると幸せの保証がなくなる気がして怖いです。一種の洗脳のようなものなのでしょうか…。これからの人生を、自分が行きたいように生きていく勇気が欲しいです。

有り難し有り難し 5
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ