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一夜だけの不倫を後悔しています

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有り難し有り難し 51

初めてご相談させていただきます。
1年半前のことです。
職場が変わり、住むところも変わり、慣れ親しんだところから環境が一気に変わり、寂しさと不安でいっぱいでした。そこで、先に近くに転勤していた既婚の男友達と飲みに行くことになりました。そして、酔った彼にキスをされ、そのまま体の関係を持ってしまいました。今思えばなぜあんなことをしてしまったのか分かりません。

その後、彼からもう一度誘われましが、きっぱり断りました。電話でですが、彼を幸せにするのは奥さんと子どもさんであり、続ければ誰も幸せになれないことを伝え、もう二度とこのようなことはしない、なかったことにしようと話し合いました。

奥さんと子どもさんとも親しくしていた時期もあり、共通の知人や友人もいたのに、本当に最低なことをしてしまいました。この過ちと後悔は一生背負って生きていかなければいけないと思っています。
しかし、自分勝手ではありますが、結婚して子どもを持ちたいという夢も捨てられずにいます。

ここ1年程は、入浴の際に奥さんと子どもさん、家族やご先祖さま、友人などへの謝罪と幸せになりたいと願ってしまうことを許して欲しいと唱えながら水浴びをしています。
しかし、この水浴びも罪の意識から逃れるための自己満足かもしれません。

唯一相談できた友人の支えもあり、何度も忘れて幸せになろう、前を向こうと考えましたが、奥さんと子どもさんや家族、友人、職場の人にバレてしまい全てを失ってしまったらという不安と激しい後悔、罪の意識に襲われます。
家族や友人と楽しい時間を過ごしていると、私がこんな幸せな時間を過ごしていて良いのかという考えが頭をよぎります。私にはもう幸せになる資格はないでしょうか。
水浴びは、毎日自分の罪と向き合うため、苦痛を感じてしまうこともあります。

後悔と不安はもちろん、自分が悪いのに許しを求めてしまう弱さ、幸せになりたいと願ってしまう欲深さに日々気持ちが揺れています。

なにかお言葉をいただけたら幸いです。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

切り替えるは、あなた自身です。

たしかに罪深いことをされたことについては、どんなに後悔しても改めることはできません。又、誰しもが大小の違いはあれど、そのようなことはあるかと思います。
紫陽花さんは、その罪の深さに心から反省し、しかも水行まで行っているとのこと、自らを悔い改めるための方法としては良いかもしれませんが、そろそろ水行はやめてもいいかと思います。
何故なら、それは身体(肉体)を酷使しているだけで、何の解決にもなっていません。たしかに私たちは、肉体を持って生きていますが、それを動かしているのは心(意識)です。心と体は別ものですから、自分の淋しかったという弱い心を癒すために身体を使い、さらに、今度はその身体(肉体)を水行で酷使したら、誰が身体を癒してあげるのかということです。しかも苦痛を感じながら、何のために続けているのかということです。

さて、一度だけのいけない関係を持ってしまったのですが、その後はきっぱりと断ったのですから、その勇気と負けなかった自分にも注目してください。
もう十分に反省されたのでしょうから、今日からは切り替えていきましょう。誰が許すのかは誰でもなく自分自身しかありません。

過去の出来事は変更することも消し去ることはできませんが、同じことを繰り返さないことで成長するのではないでしょうか。この世は、完璧な人はいないということです。反省し懴悔したなら次に進むしかありません。
そして幸せを求めていいのです。紫陽花さんが幸せを求めることで、さらに多くの人たちも幸せになれるのです。
新しい年も始まりました、こうして、ご相談されたのですから切り替えていきましょう。

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おきもち

日蓮宗のお寺で、名古屋市南区にあります。 ”お寺は生きている人のためにもにある”と発願し、法筵寺を新寺建立。住職として41年になります。どこまで、その思いを達成しているか分かりませんが、少しでもお釈迦様、日蓮聖人の教えに触れて頂けたら思います。 FB https://www.facebook.com/kaisho.suzuki 法筵寺FB https://www.facebook.com/houenji/ 日蓮宗ポータブルサイト内 https://temple.nichiren.or.jp/3031069-houenji/

導き先の究極を追求しましょう

人は誰であっても人生で誰かに何かを教え、提供し、アウトプットし、影響を与える存在なのです。
間違ったことも起こすでしょう。
ですが、今朝も朝からずっと「しくじり先生」という番組がやっていましたが、人生において失敗した人たちは、最終的にどうあればいいのか。
その最終的に行くべき道を示す人がいなければ皆が過ちを肯定する社会が生まれます。
「不倫は文化」と発言した石田純一が社会に何をもたらしたでしょうか。
社会的に影響力のある人間がエゴの為に罪を肯定すれば「ああ、自分もやっていいんだ」ということになる。
今の芸能界はみんなそういうエゴが肯定され、不倫をしても悪さをしてもすぐに職場復帰なのはモラルがないからではないでしょうか。
この世の中にはそれでもやってイイコトと、やってはいけないことがあるのです。
その世の中でもしやってはいけないことをやってしまったとしても、それでも今後はやってはならないのです。
今後も「いえいえ、不倫はOKです」と開き直って他人の家庭を壊したらそれはそれで本人が何と言おうと罪は罪。悪は悪。家族に知られれば大きな悪影響を及ぼすものなのです。
だからこそ、人間として持つべきこことはそこで初めて宗教心、モラル、倫理、道徳ということが必要になってくる。
無宗教心とはある種のエゴイストの肯定、悪玉菌の増殖の助長スタンスだからです。
別に何かの宗教に入るということではありません。
神仏を敬う心=自身のエゴイストや非人道的な心をおさめて自他ともに害のない生き方を選択しますというこの世に生まれてきたあらゆる存在の「おやくそく」なのです。
幼稚園でも小学校でもお約束をいたします。
それは人間として人間性を維持するこころざしです。
それがあるからこそ導き先が明確になってくるのです。
指導者、教師、医師、僧侶、法律家…、
導き先を失って人間性やモラルが欠如すれば今日本に蔓延しているお金や権力さえあれば罪なき人や被害者を悪者にすることもできるのです。
どうそ、これを機会に何故この世に宗教というものがあるのか、なぜ神社、仏閣というものがあるのか、なぜ信仰というものがあるのか、誰のためにあるのかを考えてみましょう。
そして、自分こそ守るべき精神や導き先をきっちり定めて敬うという精神=宗教心・人間性を持つべきであったことを思い出して、今後、そういうことの無いようにいたしましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自分を責めるのはやめましょう!

文章を読ませていただきました。
痛々しくこちらも辛くなりました。
もう十分ですよ。
水浴び、潔斎して、
身は清まりましたか?
楽になりましたか?
おやめなさい。無理は!
修行はもっと自分を
高めるために行うものです。
また修行の前提で、
身を清めるために行います。
修行とはなんでしょうか?
自分をより高いもの、
精神的に安定した状態に、
置くためのものです。
相手の奥さまやお子さま、
そして御先祖さまは、
もうお許しくださっていますよ。 
逆に痛々しいから、
やめさせてくださいと、
いってらっしゃるのでは、
ないでしょうか?
もう水浴びやめましょう。
どうしてもというなら、
暖かい酒風呂くらいで。

愚僧は坊さんのくせに、
仕事で行くついでに、
霧島神宮を年に2度、
参詣していますよ。
全てが赦されて、
清々しい気持ちです。
温泉も硫黄の香りが、
身が清まるようです。

どちらにお住まいかは、
存じ上げませんが、
心機一転、
縁結びを御祈願したら
いかがでしょうかね?

おごじょ こいからど

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個別相談可能
浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向きに楽しく愉快に生きていくためのヒントを自分自身も考え続けながら、また少しでも皆さんのお役に立てればと考えています。できるだけ、わかりやすく簡単にお答えしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。現在も整骨院をやっていますが、医療福祉関係の仕事に長年従事してきました。他に、知的障がい者施設の仕事に関わらせていただいています。また、イジメや引きこもりなど子どもたちのために何かできることがないか、現在模索中です。フリースクールをお寺で開講予定しています。仏教特に浄土学は死ぬまで研鑽だと思っていますが、居眠り専門なのが、課題です。

質問者からのお礼

温かいお言葉をありがとうございました。何度も繰り返し読ませて頂きました。私はこの過ちから祈るということが増え、神様や仏さまに感謝するということが増えました。
気持ちを切り替えられるように少しずつ頑張っていきたいと思います。
本当にありがとうございました。

また読み返して涙が出ました。これからも不安や後悔に襲われ、自分が幸せになっても良いか自分自身に何度も問いかけることがあると思います。しかし、頂いたお言葉を御守りにし、心の支えにしていきます。そして、もう二度と同じ過ちは繰り返さないと誓います。家族や友人との幸せを大事にしていきます。お忙しいなか、お話を聴いてくださり、本当にありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ