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【不安障害】更に1歩進むために・・・

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有り難し有り難し 19

只今【不安障害(神経症)】という心の病と闘っている者です。度々、相談をさせて頂き、お坊さま方々のありがたいお言葉で、なんとか、弱くなってしまった自分を変えようと、前向きな気持ちになってきたところです。(変化は有りました)
心療内科での薬物療法に加えて、自己流ではありますが日誌をつける、軽い運動をする等 「行動療法」で、 少しずつ 動き出したところです。
しかし、なかなか思うように進めない自分が情けなく、酷く落ち込みます。
恥ずかしい事ですが、今の自分を、この現状を… 上手く受け入れられない?
明らかに自炊も出来なくなり、日常生活に支障が出てるのにも関わらず
自分を[病人]と認めたくない自分がいて
「自分は、今までどんな困難でも乗り越えてこれた!」「負ける訳がない!」 等と、私の変なプライドが、きっと 回復の邪魔をしてしまってるのでしょう。 我が強すぎるのか、素直でないのか・・・
この病は「自分の意識改革」によって回復期が左右されると思うのです。
今の自分を素直に受け止め【変なプライドを捨てる方法を教えて下さい】

相談させて頂くたびに、色々学ばせていただいて、「不安と共に」「焦らない」「自分に優しく、癒す」など… 何度も繰り返し、自分に言い聞かせています。
いろいろ試して、何とか 乗り越え、いずれは回復し、社会復帰を目標に!

hasunohaでの御回答は、何度も繰り返し読み直して、私にとって大切な「心の教科書」となっております。どんな事でも構いません。お言葉をいただけたら嬉しく思います。いつも長々と申し訳ございません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

✨「禅」的な行動療法✨ 手放しの行動

私が心の迷いや苦しみがあった時に一番効果があったのは、心に何もさせない事でした。
何もしないということはできないという人もいますが、いいえ。
眼は見ている時と、見えている時があり、耳も聞いている時とただ聞こえている時があります。そこに自分の能動的な意識が一緒に働いているかどうか。
たとえば坐禅も行動療法の最高峰も共通するのは「なにかをする」ことよりも「この身に任せる」という所に行きつくと思うのです。
書道も達人は筆に任せて自我がありません。
楽器の演奏も本当にやるべきことをやれることで最高の演奏、最高の音声が❝弾かれ❞ます。
自分が自分が自分が自分が…と、自分がやろうとすればするほど「はずれる」ものだということを知っておきましょう。
同じように、心もそうなのです。
習慣性でつい考え事をしてしまう。しかも悪い方向に考えてしまうということ。
そこにこそ本当の問題があるのです。
つい、自分が介入して、つい、自分の能動意識でエンジンの空ぶかしをしているのです。
自転車のスタンドをおろさずにペダルを踏んでも空回りです。
思考というものは現実を相手にするために思考し、思考というものは現実に向かわせるために活用すべきものであるのに、無いもの・無い世界・無いことに向かって思考を使えば空ぶかし・空回りになってしまいます。
そういう思考をついやってしまっていることを自身で知って、それもやらないようにしなければなりません。
では何をすることが効果的なのか。
カンタンに申し上げますと、現実だけを相手にしていくということです。
やることを持たないままにやるということ。
まな板の上で野菜を切る、洗いものをする、家事をする。
そういう時にも私は「ただ」そのことだけを行います。
こころに余分なものやオプションを運びません。
ことを行なうのに親しく、密接に「親切に」おこなうのです。
思考という余分な化学調味料を使わずに料理をする。家事をする。
ほんだしも味の素も科学調味料も入れない方がおふくろの味になります。
入らぬ手を加えない事。おふくろの味、お母さんの手料理のような。
そういう優しさをあなた自身にしてあげることです。
ホウキも歯ブラシも強く使うとすぐに痛みます。
やる事、やる意識、何かをしようとする意識のレベルを下げた方が長持ちするということがどんな業務にもあるものです。
ご寵愛ください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

✨「禅」的な行動療法✨ 手放しの行動

私が心の迷いや苦しみがあった時に一番効果があったのは、心に何もさせない事でした。
何もしないということはできないという人もいますが、いいえ。
眼は見ている時と、見えている時があり、耳も聞いている時とただ聞こえている時があります。そこに自分の能動的な意識が一緒に働いているかどうか。
たとえば坐禅も行動療法の最高峰も共通するのは「なにかをする」ことよりも「この身に任せる」という所に行きつくと思うのです。
書道も達人は筆に任せて自我がありません。
楽器の演奏も本当にやるべきことをやれることで最高の演奏、最高の音声が❝弾かれ❞ます。
自分が自分が自分が自分が…と、自分がやろうとすればするほど「はずれる」ものだということを知っておきましょう。
同じように、心もそうなのです。
習慣性でつい考え事をしてしまう。しかも悪い方向に考えてしまうということ。
そこにこそ本当の問題があるのです。
つい、自分が介入して、つい、自分の能動意識でエンジンの空ぶかしをしているのです。
自転車のスタンドをおろさずにペダルを踏んでも空回りです。
思考というものは現実を相手にするために思考し、思考というものは現実に向かわせるために活用すべきものであるのに、無いもの・無い世界・無いことに向かって思考を使えば空ぶかし・空回りになってしまいます。
そういう思考をついやってしまっていることを自身で知って、それもやらないようにしなければなりません。
では何をすることが効果的なのか。
カンタンに申し上げますと、現実だけを相手にしていくということです。
やることを持たないままにやるということ。
まな板の上で野菜を切る、洗いものをする、家事をする。
そういう時にも私は「ただ」そのことだけを行います。
こころに余分なものやオプションを運びません。
ことを行なうのに親しく、密接に「親切に」おこなうのです。
思考という余分な化学調味料を使わずに料理をする。家事をする。
ほんだしも味の素も科学調味料も入れない方がおふくろの味になります。
入らぬ手を加えない事。おふくろの味、お母さんの手料理のような。
そういう優しさをあなた自身にしてあげることです。
ホウキも歯ブラシも強く使うとすぐに痛みます。
やる事、やる意識、何かをしようとする意識のレベルを下げた方が長持ちするということがどんな業務にもあるものです。
ご寵愛ください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

安穏寺・丹下覚元さま

はじめまして。いつも、数々の御回答を拝見させて頂いております。とても勉強になり、尊敬しております。
この度は、私の悩み事に、ご丁寧な御説明、それからアドバイスをして下さってありがとうございます。
御回答が届いてから何度も繰り返し読ませていただきました。
私は、余計な事を考え過ぎて、自分で自分を追い込んでしまい、苦しんでいるような気がしました。
「心」が疲れる仕組が理解出来た気がします。「心を休ませてあげる事」も大事なのですね。「任せる」そうですね…
今一度冷静になって、あれこれ考え過ぎて混乱するより、目の前にある今の現実を受け止めるように努めてみます。
お忙しい中、ご回答ありがとうございました。
和尚さまにとって素敵な一日でありますように。お身体大事になさって下さい。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ