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禅宗とは

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有り難し有り難し 9

母親が亡くなってもうすぐ1年になります。
未だに毎日のように母の事を思い出して辛いです。
母親とはずっと前から関係がよくありませんでした。
なので良いことばかりではなく
嫌だったこと、辛かったことを思い出したかと思えば、母も生きづらく辛かったろう寂しかったろうと後悔の念が巡って涙が流れたりと、ずっと複雑な気持ちで考えが堂々巡りして頭がおかしくなりそうです。

よく、忘れる必要はないとか、思い出すことが供養とかと言われますが、思い出さないといけませんか?
思い出したくないのです。

宗教には詳しくないのですが、うちは禅宗という宗派です。
禅宗とは座禅を主にする。という宗派?
のようなのですが、
座禅=心を無にする=座禅の間は亡くなった人の事への思いを無にしてしまうことが供養になりますか?

思い出してしまいそうになったら心を無にしても良いですか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「人と共に養う」

『供養』とは、単に「亡き方を思い出すこと」ではなく、ましてや「思い出さないこと」ではありません。
亡き方に、「ありがとう」と感謝の思いを向けることを『供養』と言います。

お母様の「良い思い出」…
これに対しては、素直に感謝の思いを向けることができると思います。

「嫌だったこと」「辛かったこと」…
これらは、あなたが心安らかに生きて行けるように…『周りの人に対してこの様な思いをさせると、嫌われて生きることが辛くなってしまうので気を付けなさいょ…』という自らが『嫌われ役』をかってまで、あなたを導こうとした『教え』と考えることができないでしょうか?

そして、
「母も生きづらく辛かったろう…寂しかったろう…」と、他人を思いやる『優しさ』も、あなたに残されている…

これら全てを、苦しみに振り回されやすいこの世で、あなたが心安らかに生きて行けるための『お導き』『教え』として受けとめることができたならば、そしてその『お導き』の通り、あなたが心安らかに生きることができたならば、自然と感謝の思いを込めて、手を合わせることができるのではないでしょうか?

『供養』とは、「人と共に養う」と書きます。

あなたが、感謝を胸に心安らけき日暮しを送れることが、あなた自身を養うということであり、同時に、感謝される『仏様』として、あなたの心の中にお母様を養う(思い続ける)ということでもあるのです。

『供養』という言葉…
いま一度、よくお考えになってみて下さい。

尚、蛇足ながら…
禅宗の『座禅』にも解釈の違いがあります。
曹洞宗の坐禅は、『只管打坐(坐禅)=即心是仏(仏)』というものです。
(残り文字数が少なく、今回は詳細に説明できませんので、ご興味があれば改めてご質問下さい)

これを機に、あなたが『坐禅』にも関心を持たれたのであれば、それもお母様の『お導き』…
供養に繋がるとは思いますが…

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有り難し
おきもち

GALUCHAT
曹洞宗寺院の住職です。 GALUCHAT(ガルーシャ)と読みます。 ...
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質問者からのお礼

GALUCHAT 様
お返事ありがとうございました。
お返事を頂いてから何度も読み返してよく考えました。
私なりに母への思いについて、心を整理し、母を私にとって複雑な存在から、仏さまへと変えることが出来そうな気がしてきました。

「只管打坐(坐禅)=即心是仏(仏)」について、インターネットでですが調べてみました。難しそうですが興味深いです。

ありがとうございました。

「坐禅について」問答一覧

アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

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回答数回答 2

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