禅宗とは
母親が亡くなってもうすぐ1年になります。
未だに毎日のように母の事を思い出して辛いです。
母親とはずっと前から関係がよくありませんでした。
なので良いことばかりではなく
嫌だったこと、辛かったことを思い出したかと思えば、母も生きづらく辛かったろう寂しかったろうと後悔の念が巡って涙が流れたりと、ずっと複雑な気持ちで考えが堂々巡りして頭がおかしくなりそうです。
よく、忘れる必要はないとか、思い出すことが供養とかと言われますが、思い出さないといけませんか?
思い出したくないのです。
宗教には詳しくないのですが、うちは禅宗という宗派です。
禅宗とは座禅を主にする。という宗派?
のようなのですが、
座禅=心を無にする=座禅の間は亡くなった人の事への思いを無にしてしまうことが供養になりますか?
思い出してしまいそうになったら心を無にしても良いですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「人と共に養う」
『供養』とは、単に「亡き方を思い出すこと」ではなく、ましてや「思い出さないこと」ではありません。
亡き方に、「ありがとう」と感謝の思いを向けることを『供養』と言います。
お母様の「良い思い出」…
これに対しては、素直に感謝の思いを向けることができると思います。
「嫌だったこと」「辛かったこと」…
これらは、あなたが心安らかに生きて行けるように…『周りの人に対してこの様な思いをさせると、嫌われて生きることが辛くなってしまうので気を付けなさいょ…』という自らが『嫌われ役』をかってまで、あなたを導こうとした『教え』と考えることができないでしょうか?
そして、
「母も生きづらく辛かったろう…寂しかったろう…」と、他人を思いやる『優しさ』も、あなたに残されている…
これら全てを、苦しみに振り回されやすいこの世で、あなたが心安らかに生きて行けるための『お導き』『教え』として受けとめることができたならば、そしてその『お導き』の通り、あなたが心安らかに生きることができたならば、自然と感謝の思いを込めて、手を合わせることができるのではないでしょうか?
『供養』とは、「人と共に養う」と書きます。
あなたが、感謝を胸に心安らけき日暮しを送れることが、あなた自身を養うということであり、同時に、感謝される『仏様』として、あなたの心の中にお母様を養う(思い続ける)ということでもあるのです。
『供養』という言葉…
いま一度、よくお考えになってみて下さい。
尚、蛇足ながら…
禅宗の『座禅』にも解釈の違いがあります。
曹洞宗の坐禅は、『只管打坐(坐禅)=即心是仏(仏)』というものです。
(残り文字数が少なく、今回は詳細に説明できませんので、ご興味があれば改めてご質問下さい)
これを機に、あなたが『坐禅』にも関心を持たれたのであれば、それもお母様の『お導き』…
供養に繋がるとは思いますが…
質問者からのお礼
GALUCHAT 様
お返事ありがとうございました。
お返事を頂いてから何度も読み返してよく考えました。
私なりに母への思いについて、心を整理し、母を私にとって複雑な存在から、仏さまへと変えることが出来そうな気がしてきました。
「只管打坐(坐禅)=即心是仏(仏)」について、インターネットでですが調べてみました。難しそうですが興味深いです。
ありがとうございました。