交通事故、、、なぜ?
11月に父が87歳で亡くなりました。
9月に交通事故にあい、72日間の入院生活でした。
父はとても穏やかで、人間だけでなく生き物すべて優しい私たち家族の大切な人でした。
来年の米寿の祝いを楽しみに、健康に気をつけてながら日々過ごしていました。
なぜ、誰からも愛され皆に優しかった父が、交通事故で人様に殺されなければいけなかったのか、そこにはどんな意味があるのか知りたいです。
生前、父は何かあると「仕方がない、運命だよ」とよく言ってました。事故でなくなるというのも、その人に与えられた選ぶことのできない運命なのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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悲しみの深さが関係の深さです。
お父様のご命終に謹んでお悔やみ申し上げます。
南無阿弥陀仏
様々な思いの中におられるゆーみん様になんとお声がけして良いものか…心中お察しするに余りありますが、少し言葉を述べさせていただきます。
世界には沢山の色々な人がいて、その中でなぜお父様でなければならなかったのか、その思いはけして、もっと交通事故に会うに相応しい人がいるとか、神も仏もないという嘆きとか、そういう様々な形を取って現れてくる疑問が思いの本質なのでなく、愛するお父様の突然の死があまりにも受け入れがたいということこそが本質なのだと思います。
お父様の
>「仕方がない、運命だよ」
というお言葉にどのような意味が込められていたのかはわかりませんが、おそらく伝えたかったことは仏教的な真理とかけ離れたものではないのだと感じます。
つまり、運命とはいってもそれは良い事をしていたら神様が良い思いをさせてくれるとか、その反対に悪い事をしていたら悪い目にとか、あるいはそうでなく、前世の行いなどによって全部生まれながらに起こることは決まっているとか、そういうことではなく、まさに
>「仕方がない」
の言葉で表されるように、「人間の思いを超えたものがある」ということなのではないでしょうか。
どんなに良い人でも交通事故に会う原因があれば会う、それが道理です。お父様の人柄とか行いとかそういうことではなく、たまたまその時そのようなことになる条件がととのってしまった。
道路状況とか、視界とか、交通量とか…その巡り合わせは人間の思い通りになるものでもなく、まさに誰かが一人の力でどうにかできるものではない、ということが「仕方がない」ということなのではないでしょうか。
仏教ではこれを運命ではなく「縁起」と言います。縁(条件や環境)によってものごとが起こるということです。だから運命として決まっているわけではないのです。
その日、その時、その一瞬の縁。
でもその縁の中にあったのが他でもない愛するお父様であったという事実が受け入れられない。あまりにも悲しみや混乱、拒絶の思いが強い。
しかし、その思いの深さこそがゆーみん様とお父様の関係の深さです。
仏様とは運命の支配者や世界の創造主ではなく、物事の真実・道理を説き伝える方です。
お父様がその命の終わりを通して仏様として最後の教えをこれからも説き続けてくださります。
質問者からのお礼
お言葉ありがとうございます。
事故が起こった時、本当にこの世は神も仏もないではないかと思いました。
毎朝、毎晩、神棚・仏壇に手を合わせ、お盆・正月・お彼岸には必ずお墓参りし、それでも救って下さらないのかと思いました。
しかし、私の考え方が違うようですね。毎日、神さま・仏さまに手を合わせるのはそのようなことではないのですね。
父が亡くなってからも、家族で「お父さん、よくこんなこと言ってたよね」と話し、自分が行動する時も「お父さんなら、どう言ってくれるかな」と考えたりします。
私にとっての、一番たいせつな仏さまがお父さんになった、、、と考えればいいのでしょうか。
これからもお父さんが残してくれた、習慣や言葉を大切に生きていこうと思います。
ありがとうございました。