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日本の仏教の中で自分はどれかを選べません

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有り難し有り難し 22

生涯ひとりと考えるようになり、葬式や埋めてもらう時の宗教を決めておきたくなっています。そもそも誰か私の葬式を出すのかが不明ですが、子供の頃から自分はたぶん宗教というものを好きな人間だと思っています。
しかしどうも宗教‘’団体‘’、‘’組織‘’が好きでないとか合わないと感じていてどこにも属していません。
仏教への気持ちとしては、高校生くらいで般若心経を読み、「かっこいい!」と感動してたものです。
しかし自分がいいと思った面を、日本にある宗派の短い説明を読む間に、全部の宗派が持ち合わせていない気がしてきます。
他には強いて言えば慧能の言葉も「おおおかっこいい!」と感動したのですが、では禅宗かというと般若心経に私が感じた内容と違う気がしてきます。
そのうちだんだん、感動して感じたところと宗派の説明に感じる差の離れ度で考えれば、シントーの方が身近な価値観に思えてきています。
いっそ日本の仏教なしにしてシントーかなと考えはじめています。
墓考えなくていいんじゃない、でも何でも構いませんので、ご回答頂けると嬉しいです。
(大勢いると苦手なのと、たまたま話した事があるお坊さんのふたりが、ふたりとも長く関わりたくないと思ったので、どこにも行きたくなくなりました。
ひとりは不倫を勧めていて、もうひとりは座禅会だったんですが、同僚を悪く言って(私には根拠がない話に聞こえました)「あっちの座禅会より自分の方が良いですからね」と話していました。
特に不倫の人からは話を切り上げて一刻も早くここを離れなきゃと怖くもあったし、もうこれ以上お坊さん知り合いたくないわ、と思っていました。でもそういえば幼稚園が仏教だったと思い出しました。家族が冷たかった私には、その時栗をくれたお坊さんが、子供時代に会った最も情がある人だった気がします)


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

般若心経ビビビ⚡手ごたえのあるものに出会うとそれが導きになる

それは総持寺祖院で井上貫道老師が般若心経の提唱をされている音源を聞いた時でした。
ギャーテーギャーテーの所を市販のイン〇キ仏教書の解説(イン〇キ言うな)を見ると大体「往けるものよ×2」とか「往こう往こうレッツラゴー」みたいな訳が多く、心を空想妄想の世界に羽ばたかせるピンとこないもんばっかりで。
今の目の前を捨ててどっか他の所に向かせる教えって私の中ではファンタジー仏教に分類されるんス。私はそういうのに疑いの目を持っていて救われないタイプでして。
老師は道元禅師の「風鈴の偈」と照らし合わせて「自己のいまの真実」として説いておられました。スゲー。そんな風に説ける人はまさに稀有なる正覚者、真の禅師なり。偈は自分で検索してみてください。
うろ覚えですが「この自己の身心は虚空にかかる風鈴のようなもので、今この身が触れている(出会っている)一切のこと=映像・音声・感覚=東西南北の風を嫌うこともなく、とどめることも無く受け流しっぱなしのありようをしている。(老師はこのような表現をされていません)ただチリンと鳴れば(モノとこの自己とが共鳴して同時に)真実のありようをそのままに響かせる=自己の身心というディスプレイに今映し出されていることをそのままズバリ。ちりん、チリン。(風鈴の音=自己が今出会っていること=ギャーテーギャーテー)」ぎょえー。
何と明確に人間のいまの真相をズバリ的確に説いておられることか!
老師の㊙動画を上げてますのでご検索🔍
人間、畢竟何が「どう」わかればよいのか。
仏教をわかることではないのです。
この自己というものの真実の相がハッキリする、法ということがハッキリしさえすればそれがそのまま仏教の真意を得たり、ということなのです。ですが世間の多くは仏教という学問を学ばせてしまうから道を間違う。どうして、この身心を捨てて他を描かせるのでしょう。描く筆も手にする所は何処にある。
描かんとするアートもそれが湧き出る本体は今いずこ。
描かれたものに人間の見解を添える分析マインドも、見解を添えずにそのまま視る力もどこにあるか。柱一本眺めるのに人はさまざまに物申す。見解・考えを添えるもの。
それは本当にものを見ていないということなのでしょうね。
本当にそのものになれる人は稀なり。
出会うべきは手応えのある真実を説いてくれる人。「無常菩提を演説する師=正師」なのでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

手前味噌で誠に恐縮ですが、以下は書き起こされた僕の法話の一部です。あなたのような方にはもしかしたら参考になるかも、と思いましたもので、、、。
『これすごいパラドックスなんですが、「宗教と大霊(神仏)」って矛盾がつきまとうんですね。例えばお釈迦様もイエス様も法然上人も、宗教を作った人ではないんです。
それどころか、既存の宗教をぶっ壊した人なんですよ。
大霊を体験したら、自分の中で既存の教義は壊れるからです。
宗教は元来、そういうパラドックスを抱えているんですが、気づかない人が多いですね。
宇宙大霊は無限向上が基本ですから、真の宗教家は固定された教義の中に納まるわけがないんです。
だけど、人の我は宗教を教義として固定したがりますね。
<中略>
伝統宗教でも、教義に縛られた時点で、人の無意識レベルでは神様仏さまからは離れているのです。
この場合は要するに、宗教をやっているつもりであっても、真逆の状態になっているのです。』
全文は以下です。
https://docs.google.com/document/d/11snLUoSxCzfeVqGYFZaSUg1Um9P4NWSjENASSTPPAQY/edit#heading=h.ykywtv1e34j

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有り難し
おきもち

僕はウイキペディアでは以下のように紹介されています。 「日本、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オセアニア、中東、タイ、バングラデシュで活動する指圧師、作家、音楽家。タオサンガ・インターナショナル代表。京都浄土宗和田寺の僧侶。タオ療法、タオ指圧、気心道の創始者。著書は数カ国語に翻訳され世界各地で出版されている。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%96%A8%E5%8F%8A が実は、元家出少年です。ティーンエイジャーの頃は、徹底的に自己破壊的な行動を繰り返し、高校も2つ中退しています。現在は、浄土宗和田寺の住職で、一般の人が気軽に修行できる場として、京都と東京に道場を作りました。(道場はその他、世界各地にもあります) なので、修行したい方、人のために涙する方、楽しいことが好きな方はぜひ来て来てください。あなたを歓迎します。 ※毎週、法話を配信しています。書き起こされた法話は、下記でご覧いただくことができます。 http://taosangha.com

質問者からのお礼

“仏教”に閉じ込めるな、って話で、仏教を探すな、師に出会えよ、でいいでしょうか。
レッツラゴー→どこ行くんだよ!に笑えました。
私はヒップホップ調みたいな般若心経現代語訳、あれが史上最悪だと思いましたよ。
作り話らしいのですが、拈華微笑の話が好きで、いま笑わせてもらえて有難いです。禅で、ユーモアある方が勝った、って話もあった気がします。
最近あまり笑えてなかったので嬉しいです。
とりあえず気分明るく眠れそうなのでこれからちょっと寝て、余生全部でゆっくりやっていきます。
ありがとうございました。

遠藤さま、ご回答ありがとうございます。
「おいでよ!」と言われるとは予想していなかったので、「京都かあ」とゆっくり時間が京都へ向きはじめた気がします。
(私は最近はちょっと体調を崩しています)
ところで、ここまでで回答を頂いたのはおふたりで、おふたりとも墓を切り離しましたから、自分からの自分への墓の回答は「死して屍拾う者なし」かと思いはじめました。
ほんとうに、人生最後まで道中、とだけ決めておくほうが自分に合っている気もします。
色々に思いが巡る回答を頂きましたが、思い浮かぶものが色々になりすぎて来たので、今日はいったん休憩しようかなと思いました。
遠藤さまも、私である相手が一気に全部に反応出来ると考えておられないと思いますので、たとえば今日は午後から通院先へ行こうと思っていましたから、ひとまずそこへ足を向けるとしたいとご報告させて頂きます。私は最近、一個ずつしか時間を進められないです。
通院先のあと、京都でなければ次は足がどっちへ向くのか、体調も足も私が意図して決められるものは、私にいまひとつもありません。
またご挨拶出来ればと思います。
ありがとうございました。

この数日間で、色々考え、気にかけてくださったご縁としても、京都の遠藤さまもいつか訪ねようと思っていましたが、私はどれか選ぶなら、シントーに決めました。
特に急に何かするでもないのですが、生前何か書き残すなら、シントーだと思ってる、くらいどこかに記しておこうと思います。
だいぶすっきりしました、ありがとうございました。

回答が変更されたと通知が来たのですが、どこが変わった?「おいでよ」と誘った文章を削除しましたか?
グッドラック、遠藤さん。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ