お寺を辞めなくてはならなくなった
お寺に生まれお寺の後継として育ち、10年くらい寺に勤めましたが、激務と結婚のプレッシャーから無職になって17年になります。住職が退く時が来ました。無職でも寺から給料は出ていたのですが、それも打ち切りです。富岡八幡宮殺人事件と同じ立場です。新住職を恨んでもしかたがありませんが、自分が生きていけません。借金がかなりありますし、年金だけでは生きていけません。自己破産して生活保護をうけるのも難しそうです。もう死ぬしかないのでしょうか?死ぬなら富岡八幡宮殺人事件のように新住職を巻き込みたくはないと思います。恨み辛みの感情は有りますが。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたを応援しております
拝読させて頂きました。
今のあなたの状況やご家族の方々の状況そして今までの経緯についてわかりかねる部分はありますので一概に言えませんけれども、一度今まで様々背負ってきたことや感情的になって抑えてきたことも含めて重い荷物を下ろしてみること、そしてあなたの心身も休めること、ご家族の方々もゆっくり心身共に休めることは必要かと思います。できれば一度今までのことをリセットなさり、裸の素直な人間として立ち返ることが大切かと思います。今の様々な役職を捨ててもあなたは一人の尊い人間として存在しているでしょうし、様々なしがらみや呪縛を捨て去ってみると改めてあなた自身を見つめ直すこともできるように思います。あなたが一人の人間として、一人の僧侶として生きていくことは必ずできると思います。時間はかかるかもしれません。それでもあなたが生きることを見つめ直していくことはあなたにとって本当に価値あることです。不安や心配や恐怖もあるとは思います。とはいえ生きていれば大なり小なり不安はつきものです。ですがじっくりと時間はかかりますが焦らずに解決する道はあるでしょうし、また別の道は開けてくると思います。借金や病気にもそれぞれに相談なさりあわてずに他者のサポートを受けていきましょう。その時時のタイミングもありますし、助けて下さる方により方法も様々あります。答えを急いでしまいますとなかなかうまくいかずにかえって回り道することにもなってしまいますね。私から申し上げるのもおこがましいことではありますが、あなたは先ず尊い生命を受けて今現在でも尊い存在ですし、かけがえのない沢山のご縁を頂いています。そして何よりご仏縁を頂いていますからね。あなたにはあなたの人生をかけて得られるものがあります。どうか決してあせらないで下さい、決してあきらめないで下さいね。あなたは必ず仏様やご先祖様方が見守りお導きなさって下さるのです。あなたの病いが回復なさっていかれて心穏やかに安心なさってご生活なさり、一人の人間として一人の僧侶として心豊かに仏道を歩んでいかれますようにと切に祈っております。あなたを心より応援しています!
再度拝読させて頂きました。あなたが生きる道はあります仏の教えを受けた一人の僧侶として一聖としてしっかりと生きて頂きたいです。各宗派の宗祖は何もない遊行しながらの聖でした。私達にはその様な尊い先達や見本がおられます。
「個人情報を公開しない卑怯者の戯言」(追記アリ)
以下は、標題の通りに受け止めて下さい…
お寺は、あなたを養うためにあるのではありません。
僧侶とは本来、生活費を稼ぐための職業ではありません。
寺檀制度、世襲制度の環境下にある私が申し上げても、『きれいごと』にしか聞こえないかもしれませんが…
お釈迦様の御教えに随い、苦しみの解決のための同志(僧伽)であり、その場所(僧伽藍)であったならば、現状の原因たるあなたの心労もなかったのかもしれません。
寺檀制度、世襲制度によって、確かに寺の運営という面に関しては、安定しました。
しかしそれは、本来『発心』というスタートから始まらなければならない手順を踏まないことに繋り、寺務・法務さえこなせれば『僧侶』として認知されてしまうという、本来の姿を見失うものでもありました。
一度は「役僧になる」と決心なさったあなたは、どうだったでしょうか?
「仏教に興味を持った」と思われた時のあなたは、どうだったでしょうか?
私が僧侶として心掛けているものが、今の世の中から求められているものかどうか?
住職となって日が浅いので、まだ判りません…
精一杯を勤めて、「必要ない」と判断されたのであれば、私は潔く身を引く覚悟です。
しかし、自身の信仰としての仏教は、決して捨てません。
お寺というハコモノがなくても、お袈裟という仏教徒のシンボルはなくても、信仰はできます。
…あなたはどうでしょうか?
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追 記
ご指摘の通り、私の申し上げているのは『原則論』『理想論』です。
末法濁世の現在日本において、『理想論』を声高に唱えると、同門からもどのような目を向けられるか…
お分かり頂けると思います。
それを恐れるがゆえの、匿名参加の卑怯者です。
さて、「お寺を離れる」を機に信仰も失くされてしまうのか?…と、勘違いしてしまいましたが、違ったようですね。
今後も信仰が標となってくれるでしょうから、私の回答は不要でした。
『辻説法』…本来、理想論を掲げる者こそ、そのような布教スタイルをとるべきなのでしょうが、残念ながら私にはそこまでの意気地はありませんので、末法の〇〇坊主のまま、自分の力量に見合った工夫に励みたいと思います。
ご指摘、ご返信有難うございました。
(^人^)
お釈迦様の息子ラーフラ様は弟子の中でも決して息子であることを威張ることはなく謙虚で真面目で忍耐強く、舎利弗の元で修行して密行第一や学習第一と呼ばれていたそうです。
あなたも同じような境遇なので、ラーフラ様を見習うのがいいと思いますよ。
父親や新住職に頭を下げて雑用係でも掃除係でも雇ってもらって仕事をしてお給料を貰ってはどうでしょうか。
いずれば親の介護も必要になります。
住職じゃないからこそ親の介護をする時間も確保できると思いますよ。
お坊さんというのは職業であり生き方でもありますから、どのような立場や職種でもお坊さんとして生きることは出来るのですからね。
お坊さんとしての努力目標の十重禁戒など改めて見直して努めてくださいね。
貪瞋痴を捨てて生きてくださいね。
先のことを考えてることは一旦横に置いて、今日一日精一杯生きることに集中してくださいね。
応援しています。
お返事ありがとうございます。
ラーフラは十大弟子の一人として大成されているのですよ。
また法然上人は悟ったのではなく、お念仏の教えが全ての人を救うことに最も適していると確信して山を降りたのですね。
世の中には寺に生まれても後を継がずに別の仕事をして生きている方が多くいます。
ですからあなたはあなたの生き方を歩むのがいいのでしょうね。
寺にいて貪瞋痴が増すのなら、寺から離れて生きることも良いことだとおもいます。
生活保護なども持病がありますし条件を整えたら可能かもしれませんから、専門の方に相談してみてくださいね。
あなたの仏道が増進しますように。
南無阿弥陀仏
質問者からのお礼
暖かい言葉ありがとうございました。ただ、慰められてもなんの解決にはなりません。生きる方法が欲しいんです。私も本当は死にたくないですよ。
ガルーシャ様
本来ならそうなんでしょうが、江戸時代に寺檀制度ができて明治5年に肉食妻帯が解禁されて、寺は家業化してしまいました。
原則論では救われないです。現状どうかです。また僧侶が経済活動をしなかったかというとそうではなく、法を説き布施をもらって生活してきたわけです。それにあたり最低限のものしかもたず、乞食坊主といわれながらも法を説いてきたわけです。私は寺を出ますが、法は説いていきたいと思います。乞食坊主になって辻説法をしたいと思います。
三宅様
ラーフラは大成しなかったと私は何かで読みましたが記憶違いでしょうか?
もう実家の寺に関わるのはやめたいと思います。惨めになるだけですから。結局うちの一家は寺にしがみついているだけに思います。法然上人は家庭の事情で出家し比叡山に登りましたが、当時の仏教界に絶望し、黒谷に遁世し、必死に仏教を学び、43歳の時に悟りを開かれ、野に下り最初は西山のちに吉水の草庵で、貴賎に法を説いて亡くなりました。その爪の垢でも煎じて生きたいと思います。ありがとうございました。
ガルーシャ様
信仰は捨てません。法然上人は出家にて(念仏を)申されずば、在家になりて申すべしと申されました。今は出家も在家と変わらないいやそれ以上の生活を送っていますから、還俗には意味がないのでしません。草庵からインターネットで匿名の卑怯者として法を説いていきたいと思います。それを辻説法と言ったのであって、街頭演説みたいなことをするゆうきもありませんから。気持ちに余裕がある時だけ、答えられるのだけ、このサイトで回答者になっていますから。私も卑怯者ですよ。
三宅様
悟りを開いたは語弊がありましたね。念仏の教えこそが、万民救済につながると確信したから、使命感で山を降りたのです。一遍上人も一度は坊さんになりましたが、在俗の生活に戻り、遊行して念仏の教えを全国に広めて亡くなりました。一向上人も同じです。違いは一遍上人は西山派から出て、一向上人は鎮西派から出たことです。教えは多少違ったのかもしれませんが、そういう念仏聖によって全国に念仏がひろまったわけです。遁世僧モデルという最新の学説があり、鎌倉仏教は当時の天台宗にみんな絶望して山を降りたわけです。出家して再出家するのを遁世といいます。それでも仏法を解き続けた鎌倉仏教の祖師たちは偉いです。官僧を辞めて貧乏な生活を送りながら、法をときつづけたのですから。それでどれだけたくさんの人が救われたか。ただ時代が違いますから、当時はいかに死ぬかが問題でしたが、今はいかに生きるかが大事です。四苦の生に比重が移ってきました。かといって現世利益は違いますし。仏教はそんなそくぶつてきなものではないですし。私の好きな御法語に二世安楽があります。いけらば念仏の項つもり、死なば浄土にまいりなん、とてもかくてもこの身には思い煩うことぞなきです。
南無阿弥陀佛