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ASDのありのままとは、何でしょうか。

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有り難し有り難し 25

初めまして。

私はASD(アスペルガー)の気があり、人付き合い全般が苦手です。
人の心が分からないというよりは、分かり過ぎて、それにどう応えたら良いのか分からなくなる感じと言いましょうか…。

幼い頃から、私は人に怯えられる事の多い人間でした。
繊細で泣き虫。感情の起伏が激しく、与える印象、実際の中身、本質、その全てがちぐはぐで、それが不安を与えていたのだと思います。

人間性の定まらない私に、人は怯えて近寄らなくなります。
私の意見を入れずに出た結論だけ私に伝えて去ったり。
私の振る舞いの原因を『知能の遅れによる幼さ』と取る人もいました。

憶測で広まった噂により、見ず知らずの人の悪意に晒された事もありました。
かといって極端に振る舞いを変えると、それはそれで別のトラブルに発展します。
現在は大人になったのもあり、比較的無難に振る舞えている自信がありました。

しかし先日、三年以上勤めている職場で、発達障害という言葉を通して未だ同僚に見られている可能性を感じる出来事があり、その自信が揺らぎました。

私の行いに対して『二人で』事情を聞きに来て、理由は曖昧なまま結論だけを伝えられたような感じです。言われた事に反論した瞬間の、二人の怯えた目が心に張り付いていて消えません。

私の半生を費やした努力は何だったのだろうかと無力感と怒りと、これから先への恐怖と諦念で頭が一杯です。

そうして、私は多分ここを一番に相談したいのだと思いますが…。

相手に、そう見られていると思うと、自分の中の『そういう所』がむくむくと膨らんで行くように思うのです。
それが私の『本質』で、相手はそれを『見ている』だけなのでは…と。
相手が恐れているように、強い言葉で言い負かし、幼子ほどの知能しか無いように振る舞いたいとも思ってしまいます。

そうした衝動は、良くも悪くも常に人の視線に晒され続けそれに応えてきた努力の結果として染み付いてしまった気がします。
誰かに『良い人』と強く信じて貰えないと『そう』になれないのです。
そんな親や恋人が居れば良いのかもですが、親は疑う側の先頭で、恋人も友人も居ません。
人によって見え方の変わる自分の『何処』を信じ、自分を見れば良いでしょうか。

また、私のように生来の衝動性が強く、慎む事で人の中に居る人間が『ありのままに生きる』とはどういう状態なのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「フィルター」

症状に関しての専門家ではございませんので、不的確な表現がありましたら、お許し下さい。

仏教における『ありのまま』は、「出す」時のことではなく、「受ける」時のことです。

つまり、現象に対して価値観などのフィルターを掛けて捉えないことを指します。

私たちは、意識的にも、無意識的にも様々なフィルターを通して現象を感得しております。
性別、年代、信仰、感情…
条件の違いで、同じ現象に対した場合でも、人によって「受け止め方」はマチマチです。
これが、フィルター(我見)の作用です。
フィルターによって「取りこぼしたもの」があります。
取りこぼしなきように、フィルターを外すことが『ありのまま』です。

あなたの場合は、感受性が高いため「取りこぼし」以外に「付け足し」もあるように思われます。
例えば『二人』でみえた会社の方を、『警戒した二人』『怯えた二人』と、捉えているように…

「取りこぼし」があろうと、「付け足し」があろうと、それらが『不安の元』にならなげれば、それでも問題ないと思いますが、あなたの場合は不安の元になってしまっているように思われます。

感受性の高さゆえの「付け足し」が、不安の元になっているのであれば、敢えてフィルターを用いて「付け足し」を廃する必要があるのではないでしょうか?

感受性の感度を落とせば、不安の元が少し減らせるんじゃないでしょうか?

今まで周囲と上手に付き合って来られた…

「フィルターの使い分け」…あなたにはできるのではないか?と、思います。

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有り難し
おきもち

GALUCHAT
曹洞宗寺院の住職です。 GALUCHAT(ガルーシャ)と読みます。 ...
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ありのままに生きてはダメです

私たちの心は、欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩だらけです。
ありのままに生きたら悪いことばかりやってしまいます。
ですから、ありのままに生きるのは良くないのです。
ただ、あなた自身は、自分のありのままを受け入れ許してあげてください。
他人から恐れられるなら、恐れられてもかまわない、それがあなたのありのままなのだから仕方ないと、受け入れましょう。
その上で、少しでもマシな人間になれるように心がけるのは良いことです。
他人を憎まない、他人の幸せを願う、他人の成功を喜ぶ、そのような明るい心を目指しましょう。
仏様は、あなたのありのままを許してくれます。
たとえば阿弥陀仏という仏様は、南無阿弥陀仏と念仏を唱える人を、必ず極楽浄土に迎えてくれます。
どんな悪人でも、反対に善人でも、南無阿弥陀仏と念仏すれば必ず来世で極楽に生まれることができます。
南無阿弥陀仏と念仏を唱え、みんながもなれく救われたら良いのにな、という平等の慈悲の願いにあなたも共感しましょう。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。気づかせて頂いた事を少しずつ追記して行きます。

願誉浄史さま
ありがとうございます。
昔から、私がいかに自己を律しているのか(恐らく褒められたくて)人に話す度、相手から出てくる言葉が『ありのまま』でした。最近良く聞く言葉です。
(余談ではありますが、一番嫌いな言葉は『素直』です)
なるほど、人々はありのままを社会に受け入れられていると胸を張りますが、本当にそうだったら社会は破綻していますね。
彼らは、自分や自分の信じる『何か』に受容される事を社会と呼んでいるのでしょう。
そして、私を『信じて』見ていてくれる人は生身の人間でなくても良いのだと、改めて教えて頂いたように感じました。
私自身を誰かの目の中や、自分の心の内に見つめるのではなく、まずは間に仏様を挟んで見つめてみるのも良いのかも知れません。
人は醜く間違うもので、その姿こそありのまま…。
受け入れられないでなく、受け入れていないという、これもまた何度か言われた言葉の意味が、少し分かったような気がします。

GALUCHATさま
ありがとうございます。
確かに、それは幾度も考えました。
全ては私の思い込みなのではないだろうか…。
私は何かの精神的な病気に罹って、見えない物が見えてしまっているのではないか。
余りにあらゆる人に『人の心がわからないんだ』と言われた結果、自分に都合の悪い幻覚を見ているのではないかと。

しかし、言い訳じみてしまいますが、私の歩いて来た道は人よりやや過酷で
恐らくその『幻覚』がなければ、恐慌状態に陥った実母や学校のクラスメイトに、大義名分を付けて殺されていたのではないかとも思うのです。
(それこそ、心を病んだ結果の悪い妄想ですが)
恐らくこれは、過酷で天気の変わりやすい高山に住む兎の過敏な聴力のようなもので、今まで私を守ってくれていたのだと思います。
お言葉で、それに気づかせて頂きました。
今まで忌々しいとさえ思っていたそれが、自分を今日まで生かしてくれたのだと知って、感謝をしながら少しずつ手放して行こうと思います。

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