変わっていくのが恐ろしい
私に自我が芽生えたのは、今から8年ほど前であったと思います。
それまでの私はいつも何かに怯え、耳を塞ぎ、目を閉じる同然の生き方をしていたので、人と関わることもなく、世界の謎を紐解きもしませんでした。
私は尊敬できる友人たちや恋人たちに出会い、彼等と様々な世界を語ることで、また、様々な思想や書物に触れ、土地や歴史や文化に触れることで初めて人間となり、数年で一気に人生をまたいだようです。
お坊さまは、それぞれ形は違えど、仏門で人々を導いておられます。
導くとは、それぞれの人々が自分自身の力で救いを得るためのお手伝いのようなものではないかなと考えています。
私自身は、叫びだしそうなほどの恐れや苦しみの中にある時、いつも簡単な「答え」を知りたがりますが、ふと思い出すのは、「今この時も、能動的に(自らの意思と両足でもって)立って歩き続けなければ…」という、平穏で勇気満ちていた時の自分自身の決意で、
いつも先を歩いていく、ありとあらゆる先人たちの姿が救いになります。
私は、生きていくにつれ、自分自身と自分以外の人は別の生き物であり、別の生き方や考えをもっていることを知りました。
数年前、私はまだ人として世界を何も知らず、全ての他者の行動に憤ったり、悲しんだり、あらゆる問いを投げかけ続けました。
それは、全ての人と関わりを持っていたかったからのような気がしております。
対話すれば分かり合い、自分自身もその考えを理解できると思っていたのです。
そして、知人や家族やSNS上等の悩みや愚痴を目にすると、一緒に解決したいと思い積極的に相談に乗りました。
しかし、人は自分自身が救われようと望まなければ、救われることもできないと。
幸福とは、本人が望み、そして見つけなければ、ないのと同じことでありましょう。
そして、悩みや愚痴を持つ人々にそれを伝えたり、解決させるのは、容易なことではなく、膨大な時間や力を要します。
私には、本当に大切な友人以外の人々にはそれをしないように変化していく自分を見つけました。
そして、本当に心が通っていて、思想が似ていなければ、手助けもできないのです。
その変化を受け入れながらも、どこかで、その無力感が恐ろしいのです。
思春期がなかった私は、自分の変化が恐ろしいのです。
お坊さまは、どうして友人でも恋人でもない他人に手を差し伸べ続けられるのでしょう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ご質問ありがとうございます。
私もあなたと同じようなものですよ。
多くの人を導くなんてこと能力的にも時間的にも不可能です。
ハスノハの回答も一日に一つくらい。
多くの質問に比べたら微々たるもの。
でもハスノハには私以外にたくさんのお坊さんがいますから、多くの質問に対応できているのです。
あなたも同じように、親しい人を大切にされたらそれでよいと思いますよ。
その親しい人は別の親しい人の力となり、別の親しい人はさらに別の親しい人の助けとなる。
そうして人と人は世界中に繋がっていくのではないでしょうか。
ですからどうかご自身を卑下しないでくださいね。
あなたは無力ではありません。
親しい人を応援してあげられることだけでも素晴らしいことと思ってくださいね。
質問者からのお礼
>三宅 聖章様
ご回答ありがとうございます。
>あなたも同じように、親しい人を大切にされたらそれでよいと思いますよ。
>その親しい人は別の親しい人の力となり、別の親しい人はさらに別の親しい人の助けとなる。
昨晩この回答を拝読してから、「本当にそれでよいのか……」「子ども扱いされているのでは……」などと思案しておりましたが、今朝、自分の中にある様々な疑問についてぼんやり見返していたところ、
複雑でいくつもあったパズルがかちりとはまって至極単純になったような……
(質問内容と関係があるようにするには上手く簡略できず……)
「外の世界」の中にある「自分」とその海(無意識)が最近の私の長いテーマであったのですが、
つい先ほどまで、自分自身の外にある「外世界」は、私の中では、長らく「たくさんの別の人格」であって、その中の「私」はこの肉体や人格だったような……。
何か、それが、ご回答の言葉が浮かびまして、
「外世界」とは、時代のことを指しており、その中にある自分とは、あくまでも区切りになる意識だったような……
なにか、そう考えると、「自分の人格にこだわるな」というような……
何かどこかで(夢枕獏の「沙門空海~」などで)既に読んでいた内容ではあると思うのですが、先ほど、その意味というか、「腑に落ちた」気がいたします。
失礼いたしました。
大きな問題が、ひとつはまったような気がいたします。