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いそぎ仏に成りて―出来ないことを自覚するところに育まれる
こんばんは。亀山純史と申します。
親鸞聖人のお言葉が伝えられている書物に『歎異抄』があります。その中で、
「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏(ぶつ)に成りて、大慈悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益(りやく)するをいふべきなり。」
と述べられております。私なりの現代語訳を示せば、
「浄土真宗においては、念仏をして、すみやかに仏様の世界に生まれさせていただいた上で、大慈悲心のお心で、思いのままにすべての衆生を救い、すべての衆生に真実の利益を与えることを、「慈悲」というべきです。」
ということです。つまり、「本当の慈悲の心とは、仏様にならない限り持ちえないのだ。」ということです。これは、私たちはこの世界にいる限り、思いのままに人々を救うことが出来ないということです。この「思いのままに出来ない」ということは、「物理的に不可能である」ということのほかに、私たちは、人のために尽くす行為を、慢心せず無心で行おうとしても、行うことなど出来ない、ということもあるのではないでしょうか。
もちろん、人のことに思いを巡らし、苦しんでいる人々を救ってあげたいという心は、非常に尊いもので、少しでも、人のために尽くそうとすることは否定されるものではありません。
したがって、どこまでも、慈悲の心を追い求めながらも、この世では本当に人々を救いとることが出来る慈悲の心を得ることは出来ないことを自覚するところに、この世で得ることが出来る最大の慈悲の心が育まれるのかもしれませんね。
いろんなやり方がありますが
インターネット上で検索すると、いろんな答えが見つかると思います。慈悲の瞑想などはその典型みたいな実践法ですね。
でも、身近で誰でもが「そうだよね」と思えるやり方をお話しましょう。ただ、これは私が自分で言っているのではなく、京都自殺自死相談センターというところの先生が講演のなかでおっしゃっていたことです。
先生は最近、チワワを飼いはじめたそうです。可愛くてかわいくてしょうがない。チワワを可愛いと思って接するように周囲の人々と大切に関わっていけばいい、とおっしゃっていました。
仏教において慈悲とは何か、慈悲の瞑想とはどんな実践か、ということじゃなく、本当に大切な存在に関わることや、愛する誰かまたは何かと接することで慈悲の心が自然と起こってくるのではないでしょうか。
みんな自分が一番可愛い。怒りを手放す。
お釈迦様は、
「誰でも自分が一番愛しい。だからこそ、他人を傷つけてはいけない。」
と説かれました。
慈悲の心は、怒っている時には発動しません。
相手への怒りを手放せば、私たちには他人に親切にしたい本能もあると思います。
では、どうやったら相手への怒りを手放せるのか?
その方法の一つが、相手の立場になって考えること、相手にも色んな事情があるんだから仕方ないよね、と思うことではないでしょうか。
斉藤和義さんの昔の歌の歌詞に
「誰も悪くはないさ きっとそういうもんさ」
というフレーズがありました。
誰でも、立場が変われば判断が変わる。
立ち位置が違うから利害が対立するだけだ、と思うと、「相手も相手なりに苦労があってそういう言動に至ったんだろうな」と赦す(恨まない)気分になれるでしょう。
質問者からのお礼
皆様ありがとうございます。
私は皆様のご意見を拝見させていただきながら、考えておりました。
慈悲とは身につける方法を考えるより、慈悲について理解することが大切だと。
皆様のご意見はとても考えさせられるご意見でございます。
ありがとうございます。